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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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『何のために勉強するのか』『この知識は何の役に立つのか』。教育改革や子どもたちの学習離れをめぐって、子どもの年齢を問わず、このような問いが頻繁に登場するのも、裏返せば、学習の意味が問われているからであり、意味ある学習が求められているからである。しかし、実のところ、そもそもこうした問いにだれもが納得のいく解答などあるはずがない。(……)面白い/つまらない、楽しい/苦痛、すぐ役に立つ/役に立ちそうもない ― 「面白くて役に立つ」授業が求められるのは、性急に意味を求める問いが社会に充満していることの裏返しである」(「中流崩壊に手を貸す教育改革」in『論争・中流崩壊』苅谷剛彦)。

苅谷が指摘するこの事態(市川伸一さえもが「非常に重要な問題」だと言うこの事態)もまた「強い個人」 、意味を問うことができる、意味を問う資格・権利がある「強い個人」を前提にした内発論なのだが、皮肉なことに、学校現場では、?弱い?個人こそ動機論 ― 「子どもはみんな学びたがっている」という内発的動機論 ― で救済しようとするために、動機論が教育放棄に直結してしまう。昨今指摘される教育格差の元凶も、このすれ違いに端を発している。市川伸一自身も「『弱者の味方』のはずが、『強い個人のモデル』に転化してしまう」事態を指摘している(『学ぶ意欲の心理学』)。苅谷の2001年「インセンティブ・ディバイド」論(『階層化日本と教育危機』)が文科省含めて社会的な影響力を持ったのも、この内発的な動機論に対する批判としてだった。回りくどい苅谷剛彦の心理学者への批判は置くとして、私からすれば、〈動機〉に内発も外発もない。すべてが内発とも言えるし、すべてが外発とも言える。速水敏彦は「自律性」の「矛盾」、つまり「自律」を他律的に支援するという「矛盾」あるいは「パラドクス」を指摘しはするが(『内発的動機づけと自律的動機づけ ― 教育心理学の神話を問い直す』)、それ以上は踏み込めないでいる。彼が参照しているデシが「個人と環境の間の『弁証法的』な相互作用」などと自律における「有機的統合理論」を唱えるためだ。デシ自体はこの企ての中で、スキナーの観察主義から一歩歩を進め「個人の内部」(『人を伸ばす力』)に切り込もうとしたわけだが、デシの?理論?は、スキナー以前の、そしてスキナーが激しく揶揄した形而上学的な幻想(「弁証法的」な「有機的統合理論」に至っては100年前の旧態依然たる形而上学だ)に、〈行動科学〉を後退させた気がする。形而上学の訓練を受けていない心理学者が語る?形而上学?ほど粗雑なものはない。アホな理論ほど、〈動機〉と言っても「色々あるんだよ」とか〈自律〉と言っても「色々な程度があるんだよ」と言う。これでは形而上学にすらならない。スキナーは「行われている行動のゴールとか誘因とか目的とか意味などと言われるもののうちで考慮に入れるべきものは何もない」と言っている。動機論はスキナーからすれば無駄話に過ぎない。スキナー的に言えば、彼(学生)は才能(能力)と強い動機があるから点数が取れたのではなく、点数が取れたから才能と強い動機があった(●●●)のである。
※※ソーンダイクをスキナーが批判したのもこの点に関わっている(『科学と人間行動』)。「彼は演奏が上手だ」ということと「彼は音楽の才能がある」という説明は行動主義的にはトートロージーだからである。「満足」という「感情」がスキナーの批判する「内部状態」ではないとしたら、科目の名称自体(科目の教育目標自体)を「満足」という科目にするとき以外にはありえない。

?拡張された学力概念の害悪(3) ― カリキュラムこそが〈動機〉の形式であることについて

そもそも〈カリキュラム〉というのは、動機論を科目配置論的に構成したものなのだから ― さしたる動機がなくても学べるもの(まさに認知行動療法的に学べるもの)から徐々に難易度を上げて諸科目を構成したものを〈カリキュラム〉と呼ぶのだから ― 、その科目の一つ一つの目標の敷居を動機論的に下げてしまったら、もはや〈カリキュラム〉は崩壊する。

期限を切った動機論、目標を守る動機論がカリキュラムなのだから。カリキュラムとはそもそもが動機の形式主義 ― 動機の型としての ― なのである。

「俗流」心理主義的な動機論のたちが悪いのは、動機の動機、動機の動機の動機の……というようにどんどん目標を延期してしまうため、いつまで経ってもカリキュラムの難易度の梯子を登ることができないことだ。すべて未達のまま終わる。それが補講になったり再試になったりもするのだが、補講も再試もやればやるほど目標は下がっていく。動機論に基づいているからだ。それらは能力のない教員の、単なる学生いじめに過ぎない。
※典型的な「俗流」心理学者、奈須正裕は未達の目標延期について以下のように言う。

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