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大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について[教育]
(2021-11-29 18:18:55) by 芦田 宏直


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19. そんなことを?強制?されるのは嫌だ、自分のやり方で授業はやりたいというのなら、試験作成と試験の運用と試験の採点を第三者に委ね、自身は授業そのものに集中するのがいいと思う。詳細シラバスとしてのコマシラバスの「詳細」とは、試験の解像度(仕上がり解像度)や教材の解像度を上げ、そのことによって授業の質を上げていくというのがその本旨だった。

20. すべては、しっかりした期末試験をやって、学生仕上がりを実体的に可視化することに向けられている。可視化なしには、総括も目標の継続的な高度化も不可能だからだ。教員も学生も授業での実力(教員の教育の実力、学生の学習の実力)を自己認識する体制作りができれば(少なくとも)日本一の大学になることができる。試験不正は学生のカンニングと同じように、あるいはそれ以上の教員による不正行為だと言わざるを得ない。そのような、自分の仕事(ミッション)の自殺行為は行わないで欲しい。真正な研究者ならなおさらのことである。

※参考までに、ここまでの本文で約7,000字(400字原稿用紙17.5枚) ― 全部で8,500字余り(400字原稿用紙21枚) ― である。時間的には講義授業時間90分の30%〜50%くらいで話すことのできる分量になる。このように書字にすると30分〜45分前後で話せる内容であってもかなりの内容になる。このテキストに基づいて聴講者に〈試験〉することになるとすれば、?「大学における試験の意義は何か」 ?「シラバスや小テストが無効になるのはなぜか」 ?「大学教員による試験不正にはどんなものがあるか」 ?「それはどんな条件で起こるのか」 ?「その解決策は何か」などと言ったものになる。

しかしこうして試験テーマを取りだしただけでも、この段階で、聴講者がきちんと答えることのできるテキストが、私の用意したこのテキストだけで完璧なものになっているかと言えば、そうでもない。そもそも、これらの試験テーマにまともな解答を得られるテキストとなると、それ自体一本か二本の論文になるかもしれない(200枚でも足りないかもしれない)。

しかしその種の行き来(原テキストとそのテキストの試験テーマとの行き来)が自由自在にできることこそが、授業の質を上げ、教育の精度を上げていく大学教育の唯一の道である。こういったテキストの行き来に得意な研究者が教員になっている場処が大学なのだから。

話すのが下手な教員、愛想の悪い教員、ひいては「授業が下手」な教員は、大学にはいくらでもいるが(私はそれもメリトクラシーの恩恵を受けた「多様な」大学の教員らしい微笑ましいことだと心から思っている)、「書くのが苦手」な教員はいないはずだ。書字教材は、多様な大学の多様な教員の(下限の)標準性なのである。本来の多様性が花咲くにも、この標準性がないと、多様はカオスでしかない。その上、テキストはそれだけで充分、教員の多様な個性(専門性の水準や観点)を体現している。?語り?の方がその内容的な個性は、単に人物論的なだけではるかに曖昧だ。

したがって、こうやって原テキストを書き終えた後でも、書字化しておけば、以下のような多様な「行き来」が可能になる。

?さらなる小見出し作り(小見出しによる章や節のボリュームの大小の調節の必要) 
?キーワード抽出 
?箇条書きのさらなるグループ化(及びそのことによる再構成) 
?アンダーラインによる注意テキストの強調(あるいは授業での?語り?連関の指示)
?「引用テキスト」の増強
?難しい言い回し、展開に飛躍あるテキスト・重複のあるテキストの書き直し
?テクニカルタームの歴史(研究史)詮索
?15コマの展開との関連情報
?他科目連携の情報
?この内容に基づいたパワポ化(このテキストとの参照性の高いスライド構成)など

このようにいくつかの工夫を重ねれば、多重な内容をもっと分かりやすく解説できるテキストになる。なによりも重要なのは、一度原テキストをA4一枚でも二枚でも書くと、内容が重層的に(これらの諸項目に倣いながら)拡張・改善していくことだ。この種の改善は、再現性の薄い?語り?授業やビデオ収録ではまったく不可能なこと。これをパワポで適当に見出しを掻い摘まんで?語り?まくるのと、このように書字化してそれに基づいて修正をくり返しながら話すのとでは、〈表現の質〉〈理解の質〉はかなり変わる。なによりも学生からの質問も出やすくなる。質問の質も(解答の質も)はるかに上がる。テキストに基づいた質問・解答になるからだ。どこがわからないところなのかが、パワポの見出し主義や資料主義よりもはるかにわかりやすくなる。

授業で大切なことは、わからないところがどこなのか、ということを学生にわからせることであって(※)、「なるほど」と言わせて満足度を高めることではない(授業を聴いた途端、学生に「なるほど」と言われて、そのことを「わかる」のに何十年も研鑽を続けてきた教員が嬉しいはずがないではないか)。学生の「わかります」なんてなんの当てにもならない。ましてリアクションペーパーなんて何の当てにもならない。

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