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大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について[教育]
(2021-11-29 18:18:55) by 芦田 宏直


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●これらの試験調整、採点調整が起こる要因について

1. 教員が自分の教育力をわかっていない。どんなことをどんなふうに語り、それについての資料や教材をどの程度用意すれば、自分が言いたいこと(教えたいこと)が学生に伝わるのかが認識できていないために、本格的な(学生の実力を測定できる)試験を実施できない。

2. あるいは、自分の教育力の実際(授業準備の貧弱さ)を棚に上げて、試験だけはまともな試験をしてしまう(非常勤に多い)。これは単に難易度調整に失敗しているのではなくて、むしろ試験が正しくて、やるべき授業がやれていないだけのこと。教員は「これくらいの試験は出来なきゃ、話にならない」と思ってその試験を作ったのだから。

3. そもそも試験問題を作れない教員がいる。特に適正な難易度割合を意識した試験問題を作れない。試験問題を作れない教員は、大概の場合、授業も下手な教員が多い。

4. 教員が自分の教育力の足りない部分をいい意味でも悪い意味でもよく心得ており(研究主義の場合もここに含まれる)、シラバスと試験まではまともに作って体裁を整えるが、授業実態(教育力)が伴わないため、アンチョコ開示や採点調整などでその不備を補ったりする。

5. 質問に来たり、研究室に訪ねてきたりする学生への個人的で熱心な対応はあるが、教育の単位が〈科目クラス(学生集団)〉であることに無自覚な教員が多い。したがって、点数分布(平均点82前後、標準偏差12前後)、ということに基本的に無関心。科目クラス経営(上位は上位で競い、中位は中位で上位を目指しつつ競い、下位は下位で中位を目指しつつ競うというクラス経営)の認識に薄い。

6. 授業に取り組む姿勢はあっても、授業中のレフェランスがパワポや資料類にとどまり、基本的にトーク中心の授業になっている。パワポや資料はトークのネタにすぎず、肝心な内容は、それら「について」教員が語ることの中に存在している。しかしトークは授業が終わると雲散霧消しており、授業中にも語るそのつど消えていく。ノート取りのよほどの達人以外は授業について行ける学生は少数にとどまる。

※ここで、教科書、図版や参照文献、そしてパワポの箇条書き(やスライドに示されたグラフや図版)などを授業の?語り?ネタとしての〈資料〉と呼び、その?語り?ネタ「について」語られる内容(教員が教えるべきこと、学生が学ぶべきこと)を書字化したものを〈教材〉と呼んでおこう。

〈資料〉は?語り?の始点、〈教材〉は?語り?の目的(終点)が示されているものである。大学の授業では〈資料〉はあっても、〈教材〉がない。豊富な〈資料〉を自宅に持ち帰っても、学生はとりつく島のない状態に追いやられる。だから予習も復習もやる気が起こらない。そもそも教員が90分授業で語る文字の総数は25,000字〜30,000字。これを?語り?で終える授業を理解しろ、というのは苦行以外の何ものでもない。

7. つまり、教員が試験をまともにやれないのは、トーク依存の授業をやり続けているために、学生の専門知識の定着度に自信を持てないからだ。定着すべき内容が可視化(書字化)されていないのだから、それは当たり前のことだと言える。

8. ?語り?のレフェランス(参照帰趨性)なしの授業 ― 授業中の?語り?が用意した〈資料〉には基づいているが、その解説資料(教材)がないため、時間とともに肝心な内容が雲散霧消する授業 ―では、〈研究〉と〈教育〉とは分離し続ける。というのも、?語り?では結構いい加減なことを話し続けることができるからだ(情けないことに、中公新書やちくま新書や講談社現代新書などを一夜漬けで読んで授業ネタを作る教員もいる)。が、ひとたびそれを書字化しはじめると、いい加減なことは書けないという研究者らしい注意と配慮が先立ち始め、10行書くにも何冊かの元文献に当たる必要が出てくる。

9. この書字化としての教材作成が有益なのは、書く度に(自他共に)改善要求が出てくることだ。トークならば、書きかけたパワポを適当にやめて「後は授業で(授業での?語り?で)」と手抜きになるが、書字化すると書いたものは手許に残り続けるために、何度も推敲できる(推敲したくなる)。「後は授業で」となるとそこから先の改善は未知数。?語り?終えたらさらに未知数になり、?語り?授業は何回やっても改善しない。書き直しはあっても、トークのやり直しはきかないからだ。

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