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「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321〜331頁)[これからの大学]
(2020-03-15 02:03:48) by 芦田 宏直


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ユクスキュルが指摘したように、世界や環境は進化論的な連続性や単線性として存在しているのではなくて、複数、多様に存在している。これは進化論的な多様性ではない。進化論は〈適応〉という概念がありますが、その概念が想定している世界や環境は単数であって、その「中」に色々な生物や植物がいる、「色々な」「適応」の仕方があるという考え方です。しかし一つの生きものは一つの環境と同時に存在し、生きものの存在する分、環境も存在するというのがユクスキュルの考え方でした。カントを読んでいたユクスキュルにとっては、それは超越論的な「多様性」です。そうやって、人間にとっての世界は「知識社会」(ドラッカー)となった。つまりマットデイモンが体験した火星とは、知識なしには見えてこなかった世界のことだったのです。

一方、AI教育も喧伝されています。EdTechなどでは、もはや教員不用かのように。人物評価入試の必要性とAI教育における教員不用論とは親和的です。つまり〈知識〉評価をめぐって、〈人物〉論、〈人間〉論が両極に引き裂かれているわけです。極端な人物主義と極端な人物無用論が喧伝されている。

しかし、EdTechがどれほど有用であっても、EdTechを?尊敬する?生徒や学生はいない。「役に立った」と感謝する学生がいるにしても。

一方〈先生〉は尊敬の対象であっても感謝の関係ではない。〈尊敬〉と〈感謝〉との違いは、後者は対等かそれ以下の関係ですが、前者は敬意としての従属性が含まれています。つまり教員は消費対象としての〈道具〉ではない。ましてや学生顧客論的な契約者の一方ではない。
一人の人間が〈知識〉を集約する仕方と一つのデータベースが〈知識〉を集約する仕方は果たして同じでしょうか。あるいは〈遺伝子〉の〈人間〉への影響の集約性は、一人の人間が〈知識〉を集約する仕方と同じでしょうか。

どれくらいの知識の量やその質が、どんな人物についてどんな変化を生むことになるのでしょうか。その〈変化〉は、生徒・学生が被った変化のみならず、教員自身が被った変化にまで及んでいます。そういう知識を獲得したことによって出来上がった人物が〈そこ〉にいる。どうして、この先生はこうも魅力的なのか、誘惑的なのか、と。私もそうなりたい、と。

しかし、そうなりたいAIなど存在しない。なぜか、AIは誰とでも付き合うことができるからです。さらに誰とでも付き合うAIは嫌いだ、と言えば、そういう「個別的な」AIになってくれるという点でもAIは誰とでも付き合ってくれる。AIは誰とでも付き合うことができるだけではなく、誰にでもなれるのです。だから尊敬しようもない。〈尊敬〉とは、かけがえのない出会いの一回性、出会いの身体性に関わっています。

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