モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321〜331頁)[これからの大学]
(2020-03-15 02:03:48) by 芦田 宏直


< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 >

なぜ「たとえば」話はそうなるのか。

一つの結論(命題)の周辺の話題をかき集めることによって、一つの結論(命題)自体は何も深化しはしないからです。結論先にありきの傍証ばかりの議論になる。退屈極まりない授業になる。だからワークショップ型でごまかすことにもなるのです。自分のトークだけでは埋められない軽薄さを学生のランダムなおしゃべりを使って埋めるわけです。誰も聞いていない授業をやるよりも、起きて?活発に?議論されている授業の方がまだましだろう、と言いながら。

しかし、命題はそれ自体で歴史(起源=?ρχ?としての根拠)と内容を有しています。もっとも大学的な科目でもある哲学などは概念的な命題を追っているかのようにみえて、ギリシャ語の語源までそれを辿る行程でしかない場合も多々あります。つまり命題はそれ自体が方法なわけです。高等教育の「高等」性は、それ自体で歴史を有する中身 ― その中身を〈専門性〉と呼んでいるわけですが ― を学ぶことにあるのですが、方法主義の講座屋さんたちはどんな専門性ももっていないPowerPoint講師たちなのです。

そのようにして、「(知的に)できない」学生は、救済・裁量評価やこれらの方法主義教育によってますます知的に放置され、知識格差は、さらに拡大することになりました。「意欲」の教育力評価などはそれ自体裁量主義的に曖昧なままに、そして方法論的な抽象性のままに止まっているのですから、「知識」教育力を問う課題が「観点別評価」に変わったことによって、知識教育評価の後退は、教育力全体の評価の後退を意味することになったのです。?できない?子供も子供の個性(多様性)ということになり、その分、?できない?子供を特に教育する必要や課題も棚上にされ ― 特には「アクティブラーニング」などの授業の「多様性」展開も相俟って ― 、授業改善の進行も止まったのです。

そもそも、一定の知識に基づかない意欲や創造性評価が本来の人物評価になるかどうかさえも怪しいものです。40点の生徒・学生の知識点数(期末試験点数)を、20点分の教育欠如、指導欠如だ、という授業評価、教員評価に結びつけることなしに、「できない」学生の意欲評価などあり得ないのです。意欲と創造性がその授業において減衰しているからこそ、20点欠如したのです。

学校教育体系は、それ自体が、裁量評価の対象である「思考力・判断力・表現力」「主体性」、そしてまた道徳、情操性、社会性、人間性などの全人類の文化指標すべてを〈知識〉へと、あるいは国語・算数・理科・社会(および歴史)・英語・美術・音楽などへと変換して体現しているものです。それらの人物論的な諸指標 ― 言わばオイコス型の指標 ― が「知識」に集約されるからこそ、学校教育は、脱家族としての近代化を担い得たわけです。「知識経済」「知識の生産性」とドラッカーが言う場合も、その生産性は、技能(個人的で経験的なノウハウ)が知的な対象になる、つまり〈技能〉が〈技術〉になる事態のことを指していたのですから。

街の書店の平積み本がノウハウ・スキル書、自己啓発書で埋まり、文庫や新書本が古典作家や専門家を超えた著者によって大衆化しているのは、個人特性も適用も多様性も柔軟性も、そしてまた創造性さえも〈知識〉の対象になり、〈知識〉に集約される時代になっているということです。それらは、反知識主義と言うよりは、むしろ汎知識主義の象徴にすぎない。

< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 >


コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
TOPへ戻る