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「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321〜331頁)[これからの大学]
(2020-03-15 02:03:48) by 芦田 宏直


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あるいは、意欲や創造性を、〈知識〉獲得を媒介にして醸成していく場所が、〈学校教育〉だったはずです。言い方を変えれば、意欲や創造性を醸成するような〈知識〉の与え方はどうあるべきなのか、ということ以外に学校教育の課題などないのです。

そして、「多様な」教育を受けた子供達は、まるで下手な心理カウンセリングやコーチングのような、〈肯定〉に始まり、〈肯定〉に終わる?指導?しか受けていないため、逆に、他者や新しいものを認めたり、発見したりすることができない。空虚な自己が直接的に拡大する分、その空虚を埋めるようにして他者を拒絶するようになります。「好き」とか「嫌い」と言っているときにだけ自分と他者を確証する。多様な教育と多様な評価を求める教育(「観点別評価」の教育)が、皮肉なことにむしろ〈多様性〉を排除しているわけです。


●個々の知識をそのつど与える前に、知識への態度を育成するという方法論主義の問題点

あるいは、最初に〈意欲〉を与えた方が、後の知識獲得の生産性は上がるはずだ、という考え方もあります。〈知識〉をそのつど与えるのではなく、〈知識〉に向かう態度 ― 〈意欲〉や〈主体性〉や〈問題発見・解決能力〉などの ― を付与さえすれば、知識獲得の経済性(効率性)はむしろ上がるはずだと。
しかし、〈意欲〉〈主体性〉〈問題発見・解決能力〉などの能力は、万能ハサミのように〈知識〉から切り離されて宙に浮いて存在しているものではありません。学校教育体系における〈知識〉体系は、元から、どんな知識の与え方がその学び方を決めるのかに従って出来上がっています。学ぶ内容が学ぶ方法を決めるのであって、その逆ではない。

高校・大学の「実践的」と称するキャリア教育などの諸科目の授業は、いわば方法論(ノウハウ論)だらけの授業なのですが、盛り上がるのは最初の一回目くらい。あとはワークショップか、調べ学習に雲散霧消しています。学ぶべき実体のない授業で、外側からアプローチする授業では何も身につかないのです。方法論的な刺激だけでは学んだことにならない。
なぜ学んだことにならないのか。このタイプの授業では、講師が特に連発する言葉があります。「たとえば」という言葉です。「たとえば」と言って触れられる内容は、すべてそれぞれ専門的なテーマばかりです。それ自体で一本の論文が書けるような。もちろんそれに触れる「講師」はそれについてまともな勉強などなに一つしていません。まじめに勉強していれば、方法論しかない講座屋みたいな仕事などしているはずないのですから。その勉強の中身は、新聞か週刊誌かネットの知識程度のものにとどまるわけです。

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