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「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321〜331頁)[これからの大学]
(2020-03-15 02:03:48) by 芦田 宏直


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国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。

「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。

「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点数で)60点以上取るのは当たり前、100点であっても不合格になることがあるというのが、健全な「観点別評価」であるべきでしょうが、事態はそうならず、?できない?学生の救済評価になってしまった。中等教育の「観点別評価」の救済評価傾向を受けて、大学のAO入試(人物評価入試)も一流大学のそれを除けば、すべてが救済評価になっています。点数(知識点数)が取れないから意欲で救済する、というものです。

苅谷剛彦は、学習への?意欲?を学校外「学習時間」の長さで計ろうとしました。この場合の?意欲?は、意欲は平等にあたえられている(はずだ)という前提に立ってのものです。しかし実際、意欲(=学習時間)の強弱は母親の学歴との相関があって、その平等な意欲自体がすでに家庭環境によって減衰しているという報告を、苅谷は各種データに基づいて1990年代中後半から積極的に行ってきました(1995年『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、2001年『階層化日本と教育危機』有信堂、2002年『調査報告「学力低下」の実態』岩波書店)。いわゆる「インセンティブ・ディバイド」というものです。

しかしこの議論は、かみ合わないところがあります。偏差値が低い、偏差値さえ付かない大学の入試はすべて?意欲?入試です。これらの大学では、「AO入試」を「あなたのこれまでの実績(主には学校の成績)は問わない。これからこの大学へ入って何を学ぼうと思っているのかの意欲を問います」と説明しています。いわゆる?未来への評価?が「AO入試」だと。

さらに同じく偏差値の低い高校では学力ではなく?意欲?(あるいは?意欲?の変種)を「観点別評価」に加えて救済評価をやり続けています。両者とも、知識の極小よりも意欲の極小 ―  たとえ階層的に極小化された「意欲」であっても ―  を優先して評価しているわけです。つまりこの場合〈意欲〉の反対語は〈知識〉なわけです。〈基礎学力〉がないのならば〈意欲〉を買おうというように。

そして、この種の意欲主義が苅谷の言う学校「圧」 ―  人はみな勉強するべきだという学校圧 ― を下げているのであって、それは「努力(意欲)の格差」の問題ではないし、もっと言えば階層の問題ではないような気がします。それらは結果の問題に過ぎない。そうなるのは苅谷の言う「意欲」の反対語が「能力」だとか「生まれつきの才能」だとか「家庭の文化性」だからです。私にとっての「意欲」の反対語は、そうではなくて「知識」です。

教員が最初から意欲救済するつもりで授業に臨めば、?できない?生徒や学生の「学習時間」が減るのは当たり前のことです。この傾向の弊害の本質は、生徒救済・学生救済にあるのではありません。結果として、生徒・学生に教科の専門知識を獲得させる、身につけさせるという教員自身の課題を軽薄化させることになったわけです。その結果が苅谷が指摘する下位層生徒の「学習時間」の減小です。知識及第点以下の学生(落伍者)がたくさんいても学習意欲で救済することによって、落伍者ゼロの教科クラス運営の体裁を保つことができる。落伍者数評価(平均点や点数分布の標準偏差評価を含めて)が複雑化し、各科目担当教員が直接に担わなければならない知識教育力の実態が見えなくなってしまった。

観点別評価は裁量評価を前面化することによって、教科の知識目標のレベルを結果として下げることになった。つまり救済評価は生徒・学生救済ではなく、教員の知識教育力救済であったわけです。

「知識だけではなく(意欲や創造性も)」の「だけ」は、知識はすでに充全に獲得されているという前提が含意されていますが、それは、知識教育の軽薄化を招き、教員自身が自らの教科教育=専門知識教育の不全を不断に改善していく動機を殺ぐことになったわけです。「多様な」教育と「多様な」評価は、裁量評価の曖昧さに紛れて、教育改善の客観的な指標を見いだせなくなっています。「知識だけではなく」と言いますが、いったい誰がまともな〈知識〉教育をやってきたのでしょうか。

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