モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70〜77頁)[これからの大学]
(2020-03-11 15:35:37) by 芦田 宏直


< ページ移動: 1 2 3 >

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。

天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)

科目の自立性、分野(領域)の自立性こそがカリキュラム編成の阻害要因になっている。「カリキュラム」があるとすれば、この講座の内部の出来事であり、少なくとも〈講座〉という単位は、〈科目〉という単位を軽薄化する分、学科のカリキュラム構成に敵対する存在でしかない。カリキュラム主義に立つのなら、学部、学科、科目という「三層」でなければならない。〈科目〉に対して、「教授」と平等・対等な関係に立つのが「准教授」(「講師」「助教」)であって、〈科目〉は教授の独占物ではない。学生にとっては科目担当者の職位など(あるいは〈常勤〉〈非常勤〉すら)関係なく、学生から見れば非常勤講師でさえ教授と同等だからだ。〈科目〉という基礎単位に定位するということは、その科目(あるいは科目の各コマ)の一つ一つを時間を追って順次的に受講することを想定するカリキュラムファースト、学生ファーストの立場に立っている。

※4 もっともこの「講座制(チェアシステム)」が実際「実現する」のは明治二六年のことである(文部大臣は井上毅)。天野は前掲の著作『大学の誕生』(2009年)のずっと後の著作で次のように続けていた。「当時の帝国大学では、まだ各教授が担当する専門分野が明確に定まっていなかった。法科大学を例にとれば、一人の教授が『国法モ私法モ国際法モ』すべてに精通していることを前提に、カリキュラムが組まれていた。それは教員が不足していた時代の『一時止ムヲ得ザルノ変通』であったのだが、『学者モ此変通ニ慣レ、世人モ怪シマ』なくなってしまった。その結果、教授たちは『雑駁ニ流レ、一科専攻ニ心ヲ寄スルニ遑』がなくなり、『講義モ、精到タルヲ得サルノ嫌』がある。井上はそうした帝国大学の寒心すべき状況を打破すべく、「講座制ヲ定メ、其職務ニ対シテ専攻ノ責ヲ表明シ、以テ後進ヲ負ハシメ」ることをはかったのである(木村匡『井上毅君教育事業小史』)」(『帝国大学』中公新書、2017年)。要するに「教授」人物主義のような体裁が講座制の本質であり、その人物性が結果としてカリキュラムにもなっていたということである。しかしもちろん人物主義ではカリキュラムなど作れない。

立花隆は講座制を確立したのは東大総長二回目就任時の山川健次郎だとしている(『天皇と東大』文藝春秋、2005年)。大正七年の大学令において、帝国大学以外の大学も公式に認知され当時専門学校でしかなかった早稲田や慶応もはじめて大学として認められ、そして東京帝国大学も法科、文科大学、工科大学、理科大学などの分化大学に分かれていたのがはじめて一つの大学の中の学部という形を取ることになった。山川がやったことは、この複数の学部からなるユニバーシティとしての大学の確立ともう一つが講座制だったと立花は言う。「それを ― 『講座を』引用者註 ― 大学組織の構造的な単位とし、人事のポストも財政資金も講座単位で配分されるようにして、講座主任教授の権力が圧倒的に強いものになるように制度化されたのはこのときからである。いわゆる講座制の弊害もこのような講座の独立王国化から生まれた」と。立花は、同時にこの講座制の「独立王国化」は「講座を外部の干渉から守る」「学問の自由を守ることにも役立った」としているが、近代国家の成立以前に起源をもつヨーロッパの大学の「学問の自由」と最初から国家主導で進んだ日本の大学の「学問の自由」とは比べる術(すべ)もない。

金子元久は、「講座」という言葉は、もともとは「ドイツの大学における正教授のポストを意味していた」と言い、帝国大学における「制度的に標準化された単位組織としての講座は、日本独特のものである」としている。講座制は「先端的な専門分野をひととおり急速に導入し、さらに後継者を養成するうえでは大きな役割を果たした」と指摘している(『大学の教育力』岩波新書、2007年)。また潮木守一は、その「講座」の語源となったドイツの大学について、その学長や学部長は ― アメリカの、「理事会から全権委任された」学長や学部長と違って ― 、「こまごました学務を処理する事務屋」であって、「学部教授会とは … 夜店を張っている教授たちの既得権益を保護するためのギルドであった」とまで断じている(『ドイツの大学』講談社学術文庫、1992年)。

< ページ移動: 1 2 3 >


コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
TOPへ戻る