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先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240〜251頁)[これからの大学]
(2020-03-08 13:09:16) by 芦田 宏直


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一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。

しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。

詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それらがどんなに教場を満たしてもそれら「について」語る教員のメタトークは存在する。たとえ「答えを教えて」もそれについてのメタトークは存在する。「答え」は終わりを意味するわけではない。教場はもともとがメタトークの場所なのだから(註41)。

鈴木有紀の『教えない授業』がダメなところは、最初に答えを教えたら終わりだと思っているところである。しかし、問いかけも再度湧き上がる疑問も終わりの質が決めている。そして終わり(答え)の質を評価できるのは、教員だけなのだ。

それでもなおコマシラバスは「詳細すぎる」という教員がいるとすれば、肝心なことはすべてトークに任せるという、中世の教養エリートに対してのような「口頭の伝達に依存する」「秘儀」のような授業 ─ 印刷技術誕生以前の ─ を行う教員だということになる。200文字でも「詳細過ぎて」難しいという学生にトークと板書だけでわかる授業をやれる大学があるとすれば、その学生たちは逆に偏差値70は超えていなければならない。逆にノートを取ることの天才たちに、「詳細」な授業情報を与えればそのノートの質は大学教員の講義ノートに匹敵するものになるだろう。

(註41)

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