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名門私立小・中学校の入試と底辺大学の入試とが同じくAO入試である理由(『シラバス論』269〜271頁)[これからの大学]
(2020-03-07 12:23:04) by 芦田 宏直


(…)一方で東京の名門私立学校が形成する家族主義的に選抜された学生群─この子どもたちの親は一般的に言ってその子どもたちが通う学校の教員よりも学歴(学校歴)と識見が高い ─ が存在し、一方でメリトクラシー(努力主義)によって非家族主義的(点数主義的)に這い上がってきた「グロテスクな」学生群 ─ 「それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない」(高田里惠子『グロテスクな教養』ちくま新書、2005年)と高田が指摘した文化人たち ─ とが存在している。天皇制の反対概念がメリトクラシーだと言ってもよい。

不思議なことに、名門私立学校と偏差値も付かない学校の入試選抜とはどちらも人物評価であるが、前者は中高一貫校選抜での家族(親)への評価、後者は学生個人への評価である。

どちらも偏差値だけでは選ぶことができない選抜という点で共通している。人物評価入試が新入試方式として間もなく始まることになるが、この二つの入試は点数主義批判としてすでに人物評価入試である。前者は家族がまともか、後者は個人がまともかである。しかし前者の個人(子ども)が家族の文化性 ─ ブルデューふうに言えば家族の「ハビトゥス」(『実践感覚』みすず書房、1988年)かもしれない。「ハビトゥス」は、ブルデューの「無思考なカテゴリーの社会学」に属しており、それは「解釈学的なものだ」というスコット・ラッシュの指摘(「再帰性とその分身」、『再帰的近代化』所収、而立書房、一九九七年)は実に正しい ─ に守られている点で後者の不利は明らかである。もともとそれを跳ね返すためのものがメリトクラシーだったのだから。

「学習者中心の学びStudent-centered Learning」の思想的起源は中曽根臨教審にあったが、一方で臨教審は「家庭の重視」ということも忘れなかった。子どもの主体性(=学び)に一番影響力を持っているのが「家庭」だからだ。90年代以降(特に一九九五年以降)、核家族が核個人(あるいは超個人)になって家庭の崩壊 ─ 親子が揃って食事をする時間がなくなり、自宅にいても部屋に引きこもってスマートフォンで社会にむき出しになり、恋人同士(家族の起源)でデートしていてもスマートフォンで内外と通信する事態 ─ が加速する時代の学校教育論に「家庭の重視」と言うのだから、よほど?文化的で??裕福な?家庭以外に、子どもの主体性(=学び)を育てる場所はなくなる。

その意味で人物評価入試は、再度格差社会の格差を固定化するものでしかない。「新学力観」=「観点別評価」のなれの果ての人物評価入試は、?勉強ができない?ことまでも個性であるかのように〈教育〉の価値を貶めている。
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』269〜271頁より)
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