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西和彦講演会と「知的生産の技術」研究会の神様[日常]
(2006-10-06 00:43:22) by 芦田 宏直


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今日は久しぶりに「知的生産の技術」研究会(http://www.tiken.org/)の会長八木哲郎氏が、夕方の校長室に(突然)お越しになる。八木さんはいつも突然、「芦田さん…」と来られる。これがまた何とも味わいのある八木さんらしい訪問スタイルだ。

突然、と言ったが、11月の4日5日と行われる学園祭(2006年テラフェスティバル)に、久しぶりに元アスキー社長の西和彦氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%92%8C%E5%BD%A6)を呼ぼうと思って、八木さんにお願いをしているところだった。八木さんにお願いすれば、“市価”の5分の1から10分の1の講演料で、どんな“大物"でも呼ぶことが出来る。

今から30数年前、梅棹忠夫の『知的生産の技術』が岩波新書で出版されたとき、それに感激してわざわざ京都の梅棹の元を訪れ、ぜひこの思想を全国に広めたいとアピールしたのが若き日の八木哲郎だった(「若き」と言っても40歳を超えていたが)。

その時に若き八木哲郎が共鳴した梅棹の思想とは、知識や学ぶことは万人に開かれているというものだった。それが「知的生産の技術」ということであって、知識が生産と技術の対象であるということは、知識が一部の知識人や思想家に特権的に所有されているものではなくて、誰にでもアプローチできる開放的なものだということだった。どんな年齢からでも(まさに彼自身40歳を過ぎた頃だった)、どんな仕事に就いている人でも、知的成長は訓練次第、技術次第。これが八木さんの発見だった。

インターネット時代の今では当たり前のように思えるこの思想は、当時の護教的、前衛的マルクス主義の時代にあって、画期的なものだった。マルクス主義の知識主義は、前衛的なもの、知的エリートによって囲い込まれたものだった。

「知的生産の技術」は左翼的な知的エリート主義に対する反旗だったのである。そうやって“市民派”思想の源流になっていった。そこに八木哲郎は、まっさきに気づいた一人だった。東京を嫌う梅棹(京大の知識人はみんなそうだったが)の動きを補うように、八木は東京で「知的生産の技術」研究会を立ち上げた。

師の今西錦司(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8)に似て、徒党や覇権主義を嫌う梅棹は、八木の一種の啓蒙主義を嫌ったようだが、それでも梅棹は発足以来「知的生産の技術」研究会の名誉顧問であり続けた。私の推測だが、徒党を嫌う梅棹がそれでも「名誉顧問」であり続けたのは、ひとえに八木哲郎の人格と人徳を認めていたからだと思う。八木からすれば、梅棹にたとえ嫌われても、自分は梅棹の思想を広める覚悟だった、ということだ。生涯かけてもいい思想を見出すというのはそういうことなのだろう。

「知的生産の技術」研究会の発足が1970年(何と70年安保闘争のまっただ中!)。「知的生産の技術」が岩波新書で発刊されたのが1969年だから、八木の慧眼と行動力には驚かされる。「知的生産の技術」研究会の歴史と「知的生産の技術」という書物の歴史とはほとんど同じなのである。今では野田一夫(http://www.nodakazuo.com/)、寺島実郎(http://mitsui.mgssi.com/terashima/profile.html)など錚々たるメンバーを顧問に迎えて全国に9つの支部を持つに至っている。


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