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和田義彦の盗作騒動について ― 和田は悪くはない(2006-06-02 08:20:44)へのコメント

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by ashida(2006-06-06 23:47:53)

「和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう」。

あなたが最後に書いた文章こそが、私が言いたいことの全てです。〈社会〉なんて相手にして創作をするようではダメです。彼が“盗作”したことと彼が社会的であったこととはまったく同じことの裏表だということ。だから芸術家だって社会の一員なのだから、法律は守るべきだ、というのはほとんど意味のない言明なのです。

彼は描くことの孤独から逃げたくなった。その逃げ先が社会だった。そして盗作だった。盗作は社会的な逃亡なのです。「和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう」。その通りです。

私は彼を(盗作をして)社会的ではないから許せない、という論脈にいらだっているだけです。描くことが社会的なわけないじゃないですか。


by 匿名(2006-06-07 11:15:34)

 和田氏は、これまで新聞などで発表された内容によると、東京芸大を出て、留学した頃から名画の模写に優れていたという。勿論、分かりませんが、オリジナリティーのある作品を描くことが出来なかったのではないでしょうか。

 絵画を模写する技術はあるが独創性にかけたのでしょう。名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた。または、自分の中に創造性が欠けていることを嫌というほど知らされた。そこで出会たのが、スギ氏の作品で、その後、何十回となく模倣に近い作品を、注釈を付けることなく自分の作品とした。

 そうして和田氏は、その模倣に近い作品を日本で公開し、それで評価を得てしまった。社会的な評価をスギ氏の作品で得た和田氏は、初めて自分が日本の美術界から評価を受けたことに喜び、模写に近い作品を発表(盗作)し続けた。スギ氏が日本で知られていないことを幸いに。けれども、彼は、その作品群で日本で有名になった。そのことが盗作の事実をあからさまにした。そういう流れじゃないかなと思います。

 彼の場合は、まず、最初の動機からして、社会的に認められたい、「芸術家」としての名声がほしい、または、そこまでいうのが酷ならば、創造性を何とかして身に付けたいでも身に付けられないという自分の創造性に対する断念から手を染めたのではないのかと思うのです。そうして、それは、断念が再生の別名ならば、まったく道を踏み外した。創作ということを外面的、社会的に捉えたと思うのです。
 
 芸術家が常に創作家たらんとして、盗作まがいのことをする可能性はありえると思います。けれども、盗作の、その内的動機も、常に創造性の発露の故でなく、社会的な認知、社会的な芸術家としての名声、経済的な動機、そういう動機の方が多いのではないかと思うのです。

 あなたの言わんとする意味はとても分かります。盗作の動機のレベルもさまざまだということでしょうか。和田氏の場合は、どうかなあっていうことです。


by ashida(2006-06-07 23:13:58)

あなたの丁寧な解説で間違ってはいないと思います。ありがとうございます。

私は和田の作品について和田論をやる資格も能力もないし、関心もないのであなたのような解説はできないし、厳密な意味でその正否を判断できるものでもありません。

しかし、和田が創作家のはしくれであるのなら(そのことを認めない人はいないでしょう)、あるいはかつては創作家のはしくれであったのなら、今、和田に科せられている盗作の罪は大概の創作家の現役からすれば、他人ごとではないだろう、ということが言いたいだけです。

そうは言っても実際に盗作することと、踏みとどまって創作を続けられる人とは大きな違いがある、なんてことは誰でも言いたがるのでしょうが、それは、それ自体が社会的な(あるいは評論的な)言い方であって、創作家側から考えれば、その差にそんな大きな差はないのです。

あなたはこう書いています。
「名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた。または、自分の中に創造性が欠けていることを嫌というほど知らされた。そこで出会ったのが、スギ氏の作品で、その後、何十回となく模倣に近い作品を、注釈を付けることなく自分の作品とした」。

これはこの通りかもしれない。「名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた」。しかしこの創造性の受容はそれ自体が創作であるほどのものです。だからこそ、描ける、だからこそ描けない、というのは創作家にとって、ほとんど等価です。きわどい琴線を踏むような綱渡りが創作家の創造性というものです。

それは模倣のうまい和田であってもそうだし、どんな三流の創作家でも創作者というものはその種の孤独を味わっていると私は言いたい。

創作家でない私であってさえも、毎年毎年、式辞の前にはこれ以上ないくらいに孤独になり(どこかへ消え去りたくなり)、式辞の後にはもうこれ以上の式辞は不可能、私の経験と知識と教養とはこれですべての命脈を絶ったとおもうくらいに絶望的になります。

思わず、ヤフーで「卒業式式辞」と検索したりもします。くだらない式辞に出会うと勇気が出ますが、でも私の式辞もこんなにくだらないのか、と思ったり、すばらしい式辞に出会うと私が式辞を今更語る意味はないではないかと自暴自棄になったり、どちらにしても何をしても恐怖しかありません。この恐怖は盗作で社会的に罰せられる恐怖とほとんど同じと言っても良い。私ごときでもそうなのだから、和田の場合はもっとそうだろう、と思います。

和田はその意味で今、やっとほっとしているのではないでしょうか。


by フェルメール(2007-01-08 03:33:36)

ミケランジェロのダビデの鼻のように、社会が作品自体を修正しようとしても、大理石の粉を散らすだけでその社会的な要求をかわす芸術家もいると思います。

またフェルメールのように贋作を造ってもオリジナルを超えてえているが故に芸術だとだといわれる場合もあるのではではないでしょうか。

和田氏はオリジナルの不足を補おうとしたけれども、オリジナルを越えられなかっただけではないのでしょうか。

パラダイムを変えることは芸術だけではなく常に難しい課題ではないででしょうか。ドクター論文があっても、四国の電気釜から作られた陶器が青色ダイオードの様に、カミオカンデのニュートリノのよりパラダイムを変えることもあるのではないでしょうか。

そういう意味ではすべての学問や工芸や人文は模倣に過ぎないといえるのでは。。。。。


by フェルメール(2007-01-08 03:42:39)

ミケランジェロのダビデの鼻のように、社会が作品自体を修正しようとしても、大理石の粉を散らすだけでその社会的な要求をかわす芸術家もいると思います。

またフェルメールのように贋作を造ってもオリジナルを超えてえているが故に芸術だといわれる場合もあるのではではないでしょうか。

和田氏はオリジナルの不足を補おうとしたけれども、オリジナルを越えられなかっただけではないのでしょうか。

パラダイムを変えることは芸術だけではなく常に難しい課題ではないででしょうか。

ドクター論文があっても、四国の電気釜から作られた陶器が青色ダイオードを作るように、カミオカンデのニュートリノよりパラダイムを変えることもあるのではないでしょうか。

そういう意味ではすべての学問や工芸や人文は模倣に過ぎないといえるのでは。。。。。


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