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和田義彦の盗作騒動について ― 和田は悪くはない(2006-06-02 08:20:44)へのコメント

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by harada(2006-06-04 23:35:31)

芸術家が創作家たらんとして盗作をする。

それならば、下らないと言われる芸術家の方がまし。もし、思いは創作家たらんとしたとしても、盗作をしてそれを自分の作品として堂々と発表する、その行為、また、その行為を行うにいたった思いはを良しとすることは出来ないよ。


by ashida(2006-06-05 00:01:59)

私も、盗作を良しと言っているのではありません。けれども本来の創作家というのは、何度も書けない(描けない)という断念の中で(結果として)書き続けているだけだと言いたいのです。

創作家の最大の不幸は、有名になることです。期待を担うということです。それはノウハウ(=方法)で書くこと=描くことを強制されます。

〈方法〉なんてものは、評論家に任せればよいもので、作家の創作の現場では、方法なんてとても自覚できるものではありません。そんなものを意識し始めたらもうその作家はほとんど死んでいます。

創作というものは、そもそもが無方法でなければなりません。純粋に精神的なものでなければなりません。それが〈新しい〉作品を生み出すのですから。

したがってノウハウへの誘惑は、盗作への誘惑と同じものです。盗作への誘惑は相対的に社会的に目立つだけのことで、創作論的には、盗作に等しい自殺的な作品はいくらでも存在しています。

〈盗作〉は社会的に目立つ分、まだ健全なものだとも言えるくらいです。ああ、この作家はもう終わっているのだとみんなに公共的に(=通俗的に)わからせる分、健全なものだと言えます。

したがって、盗作は〈(社会的な)倫理〉の問題やましてや法律的な問題ではないのです。すでに十二分に和田は死んでいるのです。


by harada(2006-06-05 12:48:54)

 いつでも新しいものを作り続ける創作家が、その名声を維持しようとして、方法(ノウハウ)に走る。

それは名声が悪いわけではないでしょう。その名声を維持しようという「創作家」の思い違いが悪いのではないでしょうか。

創作家が創作家でずっと有り続けられるか、それは、その人の思い、能力によるでしょう。

 芸術家が、ノウハウで描くことが、下らないかどうかは置くとして、創作家であろうとしたとしても、盗作をして、それをは発表すること自体、二重に創作家であろうとすることに反していると思う。

一つは、その作家が新しいものを作るということに対する安易さにおいて、一つは、盗作をするという行為によって創作という行為自体を安易に考えているということにおいて。

 また、盗作は、きわめて社会的な倫理の問題、そして法律的な問題でもあるでしょう。芸術家、そして、創作家たらんとする人が、他人の作品の真似をし、描くこと、また、他人の作品からインスピレーションを得たことを明示した上、発表することは、その創作活動として認められることです。

新しいものを作ろうとして、自分の持っていない発想、視点、ノウハウを学ぶ。そうすることによって、新たなものを作ろうとする。連綿と続いてきた創作的な行為です。

社会が芸術を振興する意味に於いて、まさしく、盗作は、社会的な倫理の問題となり、法律的な問題になるでしょう。

 貴方の言うように本来の創作家としての和田氏は十二分に死んでいるのでしょう。けれども社会的な芸術家としての和田氏はこれまで死んでいるどころか、認められていたのです。盗作の噂がありながら、社会的に認められていたのです。

そういう意味では、悪いのは和田氏だけでなく、美術業界でもあるでしょう。和田氏は十二分に死んでいたにも関わらず、あたかも創作家であるように社会的に偽装をした。そういう意味で、和田氏はやはり悪いと言えるでしょう。


by ashida(2006-06-05 23:02:45)

どうも議論がかみ合っていない。

〈創作家〉にとって、社会や法律はどうでもいい。それは大概の社会人や生活者が〈社会〉や〈法律〉を意識しないでも生きているのとほぼ同じことだと言っても良い。それはあなたの言う〈倫理〉が法律以前であるのと同じことです。

「社会が芸術を振興する意味に於いて、まさしく、盗作は、社会的な倫理の問題となり、法律的な問題になるでしょう」。

そんなことあるはずがない。「社会」が「芸術を振興する」なんてありえない(同じように芸術を滅ぼすのも社会なのだから)。「社会的な倫理」、そんなものあるわけがない(社会から自立するときにこそ倫理は美になるのだから)。芸術も倫理も、それが存在するとすればいつも反社会的でしかない。家族がいつも反社会的なのと同じように、芸術も倫理も反社会的です。

社会が彼の作品を受け入れるか受け入れないかは、作品の〈自立性〉からすれば、どうでもいい。〈作品〉はいつでもそれとして否定されるべきだし、それとして肯定されるべきです。

〈社会〉や〈法律〉以前に、そしてまた〈有名=名声〉以前にそれとして否定されるべきだし、それとして肯定されるべきです。だから盗作の〈悪〉以前にもっと大きな悪、あるいは堕落を認めるべきなのです。

それは作品の自立性を前にすることによってしか出会えない〈堕落〉です。和田はどこかでそういったものに出会ったのです。それは貴重な出会いだった、貴重な堕落だったと、私は思います。


by harada(2006-06-05 23:58:40)

 そうですね、最初のあなたがいう「和田氏は悪くはない」というところから議論の前提がかみ合っていないのでしょう。

 「盗作の悪以前にもっと大きな悪、あるいは堕落を認めるべきなのです。」

 それは、そうでしょう。

 けれども、また、盗作は、きわめて(社会的な)倫理、また、法律的な問題です。社会的な制裁を受けることもそうだし、法律的に訴えられていないけれども、訴えられれば、法律的な問題になる。

それをそうでないとあなたがいうのは、盗作の行為に及び意思の段階においてはそうではないということだけでしょう。

 また、あなたは、芸術も(社会的な)倫理も家族も、反社会的だという。社会という定義が哲学をしている人と一般のそれと厳密な意味において違うのだろうか。

 「〈創作家〉にとって、社会や法律はどうでもいい。それは大概の社会人や生活者が〈社会〉や〈法律〉を意識しないでも生きているのとほぼ同じことだと言っても良い。」

 普段意識していないで生きていることと、その枠組みがあることとは同じではない。あなたのいう「創作家」にとっては社会や法律はどうでもいいのかもしれないが、和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう。


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