書店ではなかなか手に入らなくなった私の著書『書物の時間』(行路社 1989年12月15日刊) ― この著作は私の精神や思考の、つまりはBLOG『芦田の毎日』の源泉です ― を今後徐々にこのBLOG『芦田の毎日』でも読めるように公開していきます。
※BLOG版『書物の時間』への註
1)原書にあるドイツ語表記は英語表記に変更されています。またフランス語表記におけるアクサンなどはすべて省略されています。
2)原書にある傍点はすべて(残念ながら)捨象されています。
3)括弧類(《》〈〉“”)の表記についても、原書に一部変更を加えています。
4)読みやすさを考慮して、原書の段落区切りをさらに分割し、改行しています。
5)句読法の修正を中心に一部文章を読みやすく変更しています。
公開の順序は、まず著作の序文である、私が28歳の時に書いた「序文について」から、その後、後書きである「累積について ― 後書きにかえて」。その後は、第1論文(ヘーゲルと書物の時間)から第4論文(非性の存在論的根源について ― 『存在と時間』論)まで順番に公開していきます。
たぶんゴールデンウイークが終わる頃までには全文公開できると思います。これを機会に“純粋な”哲学の世界にどっぷりはまりこんでください。抽象的な思考にも実体があるということを是非理解して欲しいと思います。わからなければどこまでも教えます。感想欄か、メールでいつでも書き込んでください。哲学通信教育を行いたいと思います。
●〈序文〉について(1982年)
哲学とは何か? このような問いは、やはり、あれこれの哲学的意匠への参照を要求することになるのだろうか。それとも、そのことなしに済ませることができるのだろうか。
人が前もって知っていないことについて参照を要求することは、奇妙なことである。仮に、ヘーゲル哲学への参照がヘーゲル哲学の理解を前提することなしになされるとしたら、それは一つのこけおどしの参照にすぎないだろう。もともと“参照”は、いつでも既得の知識への参照のはずである。
もし、そのとき人が〈ヘーゲル哲学〉を知らないとすれば…、このような懸念は、参照のそのつどの必要とともにおこるものだが、しかし誰でもが知っている参照というようなものは、もはや参照ではないにちがいない。誰でもが知っているようなことを、わざわざ参照する必要はないのだから。
それゆえ、参照の論述は、最初から特定の知識の内部でしか進行しない。
哲学とは何か?という問いについて、だから参照を要求してしまうことは特定の哲学をもって答えに代えることになるだろう。結果的に、そのことは〈哲学〉に言及する者の数だけの哲学(観)があることを認めてしまうことである。
これは、哲学とは何か?という問いの意図を初めから挫く。問われていたのは、〈ヘーゲル哲学〉でも、ヘーゲル的哲学でもなく、まして私の哲学(観)などではなかったのだから。
にもかかわらず、ことさらに特別なことへの参照を必要としないようなものを、つまり、誰でもがこれということもなく知っているようなものをわざわざ書いたり読んだりする必要がないのも確かなことである。
もし〈ヘーゲル哲学〉がありふれた(allgemein) 哲学であるとすれば…、そしてまた哲学そのものが、ありふれたもの、ありふれた知識一般であるとすれば、事は参照の問題にとどまらず、哲学とは何か?という問い自体にまで及んでしまう。
というのもヘーゲル哲学が本当にありふれてしまえば、それは〈ヘーゲル哲学〉という固有の名を冠した一哲学の消失をいみすることになるだろうし、またそのようにして〈哲学〉という固有の名を冠した知(識)の一学科も消失してしまうだろうからである。