昨日の記事(家内の症状報告70)http://www.ashida.info/blog/2006/03/post_128.html#moreで、まだ少し書き足らなかったところを補っておきたい。
私のマンションには、なぜか入居したときから、トイレの入り口の下部側にライトが付いている(写真参照のこと)。
入居した頃には、何を気取って無駄なライトを付けている、と取り合わなかったが、家内の足が不自由になって大変重宝している。これは意味のあるライトなのだ。
足下を照らすライトというのは、普通は足下の障害物を照らすライトだというふうに理解される。しかし、トイレの入り口付近に障害物など(よほどのことがない限り)あるはずがない。私は、その意味では、このライトはまったく無駄なライトだと思っていた。
しかし、家内のような神経症の一部の足の障害は、足の感覚が弱くなるという障害であって、自分の足を筋力があっても動かせないという障害だ。私は、2年ほど前に、家内に足の感覚がないと言われたときに、すぐさま、こう答えた。「目があるだろ」と。「目で踏み出し具合を確かめながら動かせばいいのよ」と。そう自分で言ったときに、私はトイレのフットライトの本来の意味が、やっとわかったような気がした。
この場合、足を動かすというのは、運動神経的な操作であるよりは、視覚的な操作であって、足の向きや踏み出し具合を目で確認しながらの“行動”を障害者に強いることになる。言い換えれば、足を内部から動かすのではなくて視覚的な外部から操作するということだ。足を目で動かすのである。
神経系に障害があると、足を動かすことは視覚に頼らざるを得ない。トイレ入り口下部のフットライトは、足下の障害物を照らすものではなくて、足そのものを照らすライトなのだ。まさに“フットライト”なのである。それは神経障害者の歩行の可能性そのものに関わっている。
人間の障害は、実は障害ではない。5感が伸び縮みしながら、いつでも人間の全体を回復しようとしている。ときには5感を超えて(そして第6感すら超えて)、知性や思想そのもの、そして人間のNobility(http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_4.html)が人間の〈全体〉をカバーしようとしている。
あらゆるデザインは、こういった回復の過程の再現でなければならない。フットライトは、人間はいつでも全体的に蘇生するということを見せつけているのである。
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