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今日日曜日は昨日に続き天気もよく、それほど寒くもなかったので昨年12月24日の退院以来初めて家内を散歩に連れ出した。
とはいえ、わたし自身も1人で散歩をするというほどの“教養”人でもない。家内が元気な頃は、1ヶ月に一回くらいは外食や買い物のついでの散歩くらいはあったが、その程度。
だから、買い物も外食も難しい家内を連れ出すというのは、“純粋の”散歩とも言える。
ところが、これが鬱陶しい。まず準備に時間がかかる。この時期の寒さでは、寒さを凌ぐ完全防備が必要(特に足)。八代亜紀(http://www.mirion.co.jp/)の化粧よりも時間がかかる。どちらかというと思いつきで「出ようか」と声をかけた私からすると「やっぱり止めよう」と言いたくなるくらい。
その上、私のマンションは、家内が自力で進める地面に至るまでに三つの段差(一つめは15センチ、二つめは10センチ、三つ目は5センチ)があるため、そこを切りぬけるのが大変。まずその段差の前で家内が車椅子から降りる。その間に私が車椅子を抱えて段差を通過する(この時間も家内が立ち続ける時間はウルトラマンが地球上で活躍できる時間の5分の一くらいだから忙しい、たぶんレッサーパンダhttp://www.city.ichikawa.chiba.jp/shisetsu/dobutsu/zoosise/panda.htmよりも短いかもしれない)。家内はその段差そのものを自力で(最初の15センチの段差は特に)乗り越えることがほとんどできないから、これも介助が必要。結局、車椅子と家内とを運ばなくてはならない。これを大きな段差がある度にくり返すことになる。こうなると私には散歩でも何でもなくなる。
普通は、「外出」、「散歩」と言えば、かわいい娘や女の子と待ち合わせをしたり、格好いいスポーツカーを乗り回してさりげなく視線を集めたりする楽しみを予感したりもしてわくわくするものだが、私の散歩と外出は、ため息の連続。視線を集めても同情の視線ばかり。それも今日は半年前に買った電動車椅子で出たために、子供が、「面白い乗り物に乗っているじゃないか」と感心しきり。「僕もあんな乗り物に乗りたい…」と親にねだりはじめているのが手に取るようにわかるくらいに注目される。この注目度はポルシェやフェラーリの比ではない。
私は、そんな注目浴びてもしようがないから、数メートル離れながら他人のように歩いていたが、すれ違う人が、この距離自体に注目していたから、余計複雑な気持ちになる。家内が元気な頃から並んで歩くということはなかったから(神田の書店街でデート中に見失って別々に帰宅したことが1回あった)、どうということもないのだが、今となっては、この距離が複雑な距離になっている。3分に一度くらいは振り返らざるを得ないからだ。犬のウンチを袋に持ちながら歩いている連中よりははるかに快適だが、気を使うことに変わりはない。
散歩というのは、心も体ももっとも自由なときにその気になるものだから(私は散歩をルーティンにしている奴らの気がしれない)、障害者にはもともと散歩はあり得ない。障害者には散歩は危険との戦いだから、それ自体が“仕事”。
もともと障害者は生きること自体が“仕事”になっているのだから、通常の散歩に比べればその仕事率ははるかに上がっていると考えた方が良い。だからそんな“仕事中”の彼女を連れて“歩く”ことはもはや散歩にはならない(と覚悟する他はない)。
そう思いながら歩いていると目に付くのは、戸建て住宅の玄関=入り口にある段差。15センチ以上の段差のある三段くらいの階段が玄関入り口にある家が意外と多いのに気がついた。
これは地獄だ。まず家内なら絶対自力で外へ出ることができない。しかも三つも階段があれば、ここはほとんど抱きかかえ状態になる(に違いない)。そんなみっともないことなど私にはほとんど不可能。段差が車椅子障害者にとって持つ意味が結局わかっていない。介護の本質は被介護者が人に迷惑をかけない、人の世話になりたくない、という矛盾した状態を解決することでしかない。そのことを“福祉屋”たちは何一つわかっていない。
こういった段差のある設計を許した建築家はもはや建築家ではない。家族に障害者がいるかいないかはほとんど関係ない。酔っぱらえば全ての人間は障害者だし、荷物を抱えた人間にとっても(日常的には宅急便のお兄さん・お姉さんたちにとっても)階段は不快な障害物だ。身体がだんだん動かなくなっていくということを、年齢(加齢)によるものと考えてはいけない。障害は“ユニバーサル”なのである。
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