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デリダ追悼(1’) ― 「存在論から現象学へ」(1994年):ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ[論文]
(2004-10-26 23:43:30) by 芦田 宏直


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評論家風に言えば、私は、アルジェリア生まれのユダヤ人デリダは知性化されたレヴィナス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9 だと(今となっては)思っている。

こういった人格的な類推は下種(げす)なものでしかないが、「痕跡」「他者」「原(アルシ)-エクリチュール」などといった意匠は、もとからユダヤ的だし、レヴィナス的だ。「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』)におけるデリダのレヴィナス批判はほとんど近親憎悪としか思えない。日本ではレヴィナスが本格的に紹介されはじめたのが、デリダよりもさらに遅れて、70年代の後半だったから影響関係(に対する関心)がよじれてしまった(ちなみに私がレヴィナスをはじめて知ったのは60年代後半の丸山静の現象学関連の諸著作からだったが、70年代以降デリダを読み始めた私にはその関連が全く読めていなかった)。

私がそう思うのは、同じユダヤ人フッサールにはあれほど厳しくあたるくせに(というかあきれるほど単純な図式に推し狭めるくせに)、ナチ傾斜したハイデガーには「複雑な」関係をとるデリダのそぶりだ。ハイデガーに複雑なそぶりをとったり、ヘーゲル対ニーチェ、ハイデガー対ニーチェを前面化するデリダは、その意味で、ユダヤ的な痕跡論、他者論をヨーロッパの王道の哲学の舞台の上で演じたにすぎない。レヴィナスに残る田舎臭いユダヤ思想を普遍言語(ある種の都会語、標準語)で論じたのがデリダの「ポストモダン」だったとも言える。

以下の論文は、そのデリダのフッサール理解や現象学理解がいかに曲解されたものか、を論じた『還元と贈与』(ジャンリュックマリオン著)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%83W%83%83%83%93%81E%83%8A%83%85%83b%83N%81E%83%7D%83%8A%83I%83%93/list.html訳者後書きの論文(「存在論から現象学へ」)である。この論文で、私は、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、デリダといった学生時代に圧倒的に傾斜した思想家たちについて大概の輪郭を描き得たと思っている(要するに、この論文は『表現と意味 ― デリダのフッサール理解について』http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=351の続編であり、私のデリダ論の総決算の論文)。鍵は〈現象〉概念の現象学的理解ということだったのである。(なおWEB上での表記の諸制約からドイツ語のウムラウト、フランス語のアクサンなどは一切省略されているし、段落単位の引用文も特に●を冒頭に付けて特殊な表記をとっていることをお断りしておく)

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