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返信: デリダ追悼(2’) ― 京都を散策するデリダ(たくさんの写真付き)[社会・思想]
(2004-10-12 23:31:21) by 芦田 宏直


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当時はまだ日本の誰も注目していなかったデリダを『声と現象』の本邦初訳(1970年:原書は1967年刊)以来追跡してきた高橋允昭(のぶあき)先生にとって、70年代後半〜80年代全体を支配する世界的なデリダ“ブーム”の中でデリダが初来日した1983年は、先生の仕事全体にとっても頂点とも言える時期だった。「これがあのデリダの紹介者の高橋允昭か」と私は彼の初講義で神々しく見上げたことがある。「脱構築(だつこうちく)」という言葉、「差延(さえん)」という言葉をどこかで聞いた人は、みんな高橋先生のこの訳業の空気の中で息を吸っている。この訳語に対してその後、異を唱える人もたくさんいたが、それもこれも(いい意味でも悪い意味でも)デリダ=高橋「現象」の中でのことにすぎない。

<画像:derrida(早稲田のデリダ)05.jpg>
熱気あるふれる早稲田でのデリダ


新しい思想の発見という仕事は、いつも後からしかわからないという意味で、1970年の孤独な仕事(訳業)が10年以上の長い年月を経て日の目を見たわけだから、1983年秋のデリダと同行する先生の表情(特に早稲田の教授たちを前にしての)は「どうだ、私は正しかったんだ…」と言い続けているようにも見えた(高橋先生は樫山欽四郎先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4061596365.html亡き後、早稲田の哲学専攻からははじき出され、仏文専攻に籍を置いていた)。高橋先生が最も輝いていた時だったのである。デリダと同行することは確かに光栄なことだったが、それ以上にその高橋先生の誇らしげな(余裕のある)笑みが私には今でも忘れられない。

以下は、高橋先生が、1983年のデリダの初来日の“滞在記”を雑誌『海』で綴ったもの。どれほど高橋先生がデリダを愛していたのかがわかる。「愛していた」というのは誇張ではない。そうでないと異文化の“新人”を発掘するなんてことは本来出来ないからだ。それは一つの賭である。私も仲間と一緒に『還元と贈与』(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8A%D2%8C%B3%82%C6%91%A1%97%5E)という本を訳したことがあるが、訳している内になんてくだらない奴だ(著者マリオンhttp://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A5%EA%A5%E5%A5%C3%A5%AF%A5%DE%A5%EA%A5%AA%A5%F3&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=1&s1=za&dp= はフランス現象学の領域ではそれなりの大物だが)、と思い始め、最後まで訳すのがイヤになったことがある(おかげで訳者後書きを書くのは大変だった)。一部分や一論文に賛意を示すだけでは訳業はなりたたない。身も心も捧げるつもりでやらないと、翻訳なんて出来ない。※その時、訳者を代表して書いたのが、「存在論から現象学へ」という後書き
(http://www.ashida.info/blog/2004/10/hamaenco_4_100.html)


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