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デリダ追悼(2) ― 早稲田大学でのデリダ[社会・思想]
(2004-10-10 23:50:04) by 芦田 宏直


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デリダは1983年に初来日し、

10月24日:東京日仏会館『バベルの塔』

10月26日:早稲田大学文学部『私の立場』、東京日仏学院『掟の門前』

10月27日:東京大学文学部『大学の瞳=被後見人』

10月28日:福岡日仏学院『掟の門前』

10月29日〜11月1日:京都日仏学院『時間を与える』

11月2日:東北大学文学部『哲学を教えること』

と精力的に講演をし続けた。私がデリダに高橋先生と一緒に同行したのは、東京日仏会館(24日、26日)、東大(27日)、京都日仏学院(29日〜11月1日)の三箇所(もちろん母校の26日早稲田を入れれば四箇所)だったが、以下はその10月26日の早稲田大学においての質疑応答の私の質問部分に彼がこたえた部分です。その質問会場になった、人だかりの熱気あふれる早稲田大学文学部2階の会議室の風景写真を添付します。

<画像:早稲田のデリダ.jpg>

芦田:あなたは、ヘーゲルの記号論でのル-プレザンタシオン〔再−現前化〕における「不在の直観」というものを、「記号の恣意性」と関連して、あなたの言う「止揚されえないような〈否定的なもの〉」の議論に重ねているように思われます(『竪坑とピラミッド』)。

一方で、ハイデッガーが、sich zeigenのある種の迂回としてのerscheinenのsich zeigenを議論する場合、そこにはいつでも〈無〉の〈開け〉としての〈世界性〉の問題が控えていたと思われるのですが、あなたは、もっぱら、ループレザンタシオンにおける「不在」(迂回)性そのものの周辺にとどまりつつ議論を曖昧にしているように私には思われます。仮に、ヘーゲル批判に際してのハイデッガーの〈世界性〉こそが、形而上学的残滓に属するとしてもです。ル-プレザンタシオンにおける「不在性」の問題と、ヘーゲルの〈否定性〉そしてまたハイデッガーの〈世界性〉−〈無〉との連関、あるいは断絶について、お答えください。

デリダ:これは、厄介でしかもよく練られた質問です。私はこの質問の解答者であるよりは、質問者でありたいくらいです。

 特に、この質問の最初の部分について言えば、私は、その相違について明確に認識しているという自信がありません。ヘーゲルの「現象」とハイデッガーのフェノメンの「ジッヒ・ツァイゲン」とのあいだにある相違を即座に明確に規定することができるという自信がありません。このことについてはじっくりと取り組み、検討する必要があるでしょう。私は即座に答えることができません。〈世界性〉についてもそうです。私は即座に答えることができません。それについては、じっくり取り組む必要があるだろうし、再度ヘーゲルやハイデッガーのテクストを見直し、それらのテクストにあたることが必要になるでしょう。

 その代りに、あなたの質問のプロトコル、あなたの質問の諸前提について、つまり私が或る種の〈不在の直観〉について語っている『竪坑とピラミッド』の一節について話しましょう。私が「直観」と言うとき、つまり或る種の〈不在の直観〉と言うとき、それは私自身が責めを負う言葉ではありません。私は一つの注釈の内側で、言い換えれば、ヘーゲルをヘーゲル的に読むことの内側で記述を進めようと試みているのです。

 「何がヘーゲルにおいて起こっているのか」を内側から理解しようと、つまり不在の直観について語ろうとしながら、そう試みているのです。私は、不在の直観が現実に存在するとは思いません。もし「直観」なるものが、「なんらの充実したものに向けられた把握ないしは眼ざし」を意味するのであれば、ですよ。だから、「不在の直観」と呼ばれるような逆説的なものが、記号の恣意性の中にはある、と私は、言わばヘーゲルの言葉の中で語っているわけです。 

 ヘーゲルは、記号の恣意性というものをまさにソシュール的な仕方で記述しています。その上まさにソシュールの記号概念こそが、この点から見て厳密にヘーゲル的なのです。記号/象徴という対立と同様にです。ヘーゲルは、次のように言っています。「記号と所記とのあいだには、つまり記号とその内容との間には、自然的な関係はないし、類似の関係もなく、それは純粋に恣意的な関係である」。私が記号の体験を持つとき、私は、記号を通じて絶対的に不在である何かを把捉するのです。記号それ自体とはまったく異なる一つの内容についての直観を把捉しているのです。私が「テーブル」という語を用いるとき、その語は「テーブル」という所記に対応する恣意的な能記であるわけですが、そのとき私は、「テーブル」という語の充実した直観を通じて、「テーブル」とは、すなわち「テーブル」という語とは、何の関係ももたない何か、つまりひとつのまったく異なった、言うなれば不在の内容である何かを把捉するのです。だから私がこの一節の簡単なコメントにおいて示そうとしたのは、それだけのことです。

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