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デリダ(http://www.asahi.com/obituaries/update/1010/001.html)が死んだというのを(http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__yomiuri_20041009i513.htm)、私の大学時代(立正大学で教えていた頃)の教え子から早朝メール(先生、9日夜にデリダが亡くなりましたね。74歳。まだ若いです。膵臓がんだそうです。(仏語のソースを読んだだけなので、間違えていたらすみません)。〈脱構築〉の概念を最初に教わったのは、芦田先生の授業だったかと思います。デリダのテクストは難解でした… )が来て知った。
今日は朝から(来年度入学生の奨学生試験の審査で)学校へ行っていたが、お昼に帰宅してから、主だった彼の著作を古い書庫の中から取りだして、ベランダへ出て、本に付いた埃(ほこり)を払っていたら、リビングからその私の後ろ姿を見ていた家内が「お父さん、大丈夫? かわいそう … 」と言いながら急に泣き出しはじめた。別にそんな気で本の埃を払っていたわけではないのだが、そう言われてみれば、だんだん我が青春時代(修行時代)の多くを傾けてきた“先生”たちが、この世を去っていく。
デリダが好きだった永坂田津子先生しかり、デリダの本邦初訳者である高橋允昭先生しかり(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%89i%8d%e2&mode=and&v=249&e=msg&lp=249&st=0、http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%89i%8d%e2&mode=and&v=255&e=res&lp=255&st=0)。そして最後にはデリダが逝った。京大の浅田彰も東大の小林康夫もつまらない追悼文(今日の朝日新聞朝刊)を書いている。
この『芦田の毎日』追悼特集(1)として、とりあえず私が1986年に渾身の力を込めて書き上げたデリダ論=『声と現象』論 ― デリダのフッサール論の原型 ― をUPしておきます。文中、フランス語・ドイツ語の原語表記は、(元の書式が違うため)アクサンテギュやウムラウトがすべて表記できていません。また括弧内の原語のカタカナ表記は元のテキストではルビ文字になっていたものです。さらに元の私の原稿では傍点が多用されていますがそれもすべて省いてあります。また改行の入った長い引用文の冒頭は私の文章との区別において紛らわしいので●を冒頭に置いています。あしからず。なお元原稿は私の『書物の時間 ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8F%91%95%A8%82%CC%8E%9E%8A%D4)の第三章「表現と意味」(デリダのフッサール理解について)に収められています。この論文はデリダからの私の離反宣言とでも言うものでしたが、未だに愛着があります。いくつか修正する箇所がありますが、たぶん『声と現象』のデリダ論としては、この右に出るものは(今でも)ないはずです。
私にとって、デリダ(とハイデガー)は、20才前後まで「マルクスボーイ」(特に疎外論や物象化論のマルクス)であった私をそこから脱却させた大師匠でした。その間の経緯は、追悼特集(2)以降で書きます。なお、デリダとの思い出の写真を添付します(デリダが1983年に初来日したとき、京都の私の母方の実家貴船の「ふじや」(http://kyoto.kibune.or.jp/fujiya/)で食事をしたときのものです。
写真右から、高橋允昭先生(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8D%82%8B%B4%88%F2%8F%BA/list.html)、浜名優美氏(http://www.asahi-net.or.jp/~qe5m-hmn/)、庄田常勝氏(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-5803020-1877907)、デリダ、29歳の私。
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