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「議論は悪い」わけがないじゃないですか。そもそも、そうであれば、blogがはやる5年も前から、〈掲示板〉で自分の日記(みたいなもの)をつけたりはしません(厳密には『芦田の毎日』はblogではありません。それよりもはるかに開放的な〈掲示板〉です。
旧『芦田の毎日』(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi)では議論が昂進したあげく、掲示板荒らしにあったために、メールアドレス登録タイプに変えてしまったのが、現在のものです。やはりすっかり書き込みは減ってしまいました。残念に思っていたところです。世界中を敵に回しても耐えられるくらいに、われわれは専門学校や職業教育の将来について、実習授業の問題点について、講評主義の問題点について議論を尽くしてきました。
まず誤解を再度指摘しておきます。あなたは何度も(私の発言に関して)教員の返信(反論)がないことを喚起していますが、ちょっと考えてみてください。なぜ、私の私的なサイトに、しかも毎日議論している(われわれの足元の)教育に関して、再度書き込みをする必要があるのですか。そんなことは(もしそんなことがあるとすれば)異様なことです。反論の書き込みがないことが、反論がないことであるなどとは、私自身がまず真っ先に思っていないことです。だからこそ、私はあなたにまじめに応えているのです。
私は、あなたの授業も含めて、あなたが考える以上に毎日、毎時間、授業現場の評価をし続けています。いちども気を抜いたことはありません。そのように毎日、毎時間、教員を相手に授業目的や授業法についての“議論”をし続けています。わざわざ、あなたに反論されるまでもなく、反論も不満も聞き続けているし、一つ一つの反論に答え続けてもいます。そもそも私(たち)の改革に(旧来の教員側からの)反論がないわけがないでしょ。スタティックに教育が前進するわけがないじゃないですか。それは私自身が一番心得ていることです。私があなたの授業を許せないのも、(非常勤にすぎない)あなたの錯誤をそれでもとても人ごととは思えないからです。
学生を教育する以上に難しいのは教員を教育することです。そして教員を教育することなど不可能なことです。(校長の私に)できることがあるとすれば、授業現場にできうるかぎり足を運び、これで本当に(あなたが)教えたいことが教えられているのか、と問い続けることでしかありません。校長になってからの4年間、私はずっとそのスタンスを維持してきました。
「校長の仕事(たとえば、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=262」」の授業評価(とその公開性)は、その成果の一つです。私が「校長の仕事」(の授業評価)で実践していることは、いまだに(これまで)教育現場できちんと指摘されてこなかったことに限定しています。
教員の実名をのせたりすることに抵抗や批判は一部ありますが、どこの学校でもきちんとなされていることを、我が教員たちはできていない、というスタンスで“批判”したことなど一度もありません。どこの学校でも出来ていないことを批判すること(批判されること)のどこが恥ずかしいことでしょうか。「校長の仕事」は、わが校の教育の水準を代表している公共的な批判だと考えています。それはむしろ学校の責務(の一つについての実験的な試み)でもあります。教育に王道などありえないのですから、すべての批判は公共的であるべきです。
公共性について、もう一つ言いたいことがあります。「授業中、予告無く、何度も他の先生が入ってこられて色々されたら、そういう言葉使い(「介入」という言葉:引用者註)だってしてみたくなる、といった程度の気持ち表すために『わざと』使った言葉です」とあなたは言う。これはわかるような気もしますが、やはりおかしい。授業は生きもので、教員と学生との薄氷を踏む緊張感の中で成立している。“第3者”が「予告なく」入ったらそのバランスが崩れる。そういうことでしょうが、われわれは、そのバランスがすでに崩れているからこそ、介入したのです。個別指導を外れた学生の多くが退屈な姿勢を続けている。「予告なく」学生を放置しているのはいったい誰なのか。誰が本当のマナー違反なのか。
学生にとっては、学校での授業時間のすべての時間が分刻みでお金(授業料)を支払った時間です。保護者がその光景を見て、私はこんな授業のために授業料を工面したのではない、と思われはしないか(私は、私自身が授業料を工面するのに苦労している親の一人としてそう思いながら授業評価を続けています)。判断が整えば、学校の全勢力を傾けて授業に“介入”します。それはまさに授業が生きものであるからこそ、です。
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