今日は昼過ぎに目が覚めて何気なくmyサイトを開いたら、楽しいはずの日曜日のこんな日に、くら―い「返信」(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=1087.1059.1)。ショックです。
この学校関係者の方は、(たぶん)専門課程のみならず、社会人教育の関係者の方も何度も、私ども東京工科専門学校テラハウス校舎を訪問して頂いており、教育改革に熱心な学校だと思っていましたが、本当にショックです。日曜日だというのに一挙に目が覚めました。
私は来月21日に全国専門学校建築教育連絡協議会10周年記念講演(東京・三田会館)で全国の建築系専門学校を代表して講演することになっていますが(ゼネコンを含めて建築業界の方も多数来られる予定ですが)、このあなたの「返信」は、その内容にも影響を与えそうなくらいです。
たしかに建築系の専門学校は崩壊の危機に面しています。
理由は二つあります。
1)専門学校卒は所詮は“現場監督”と割り切って、施工系の授業しかやっていない、自ら専門学校生を差別している学校が多いこと
2)大学の授業を真似て、先生がまったく努力しなくてもいい(個別指導に走りがちな)設計系の授業ばかりやっている学校が多いこと。
たいがいの専門学校のカリキュラムは、この二つに分類できます。ただし、このような傾向を持つ学校は(傾向があるだけ)まだましで、この程度の特徴すら持てないで、個々の先生の時々の都合だけで時間を埋めているいいかげんな学校が半分以上あります。
だからあなたが学校を辞める理由は充分わかります。しかもこの現状を「学校改革」するのは至難の業。「改革」が困難な理由は二つあります。
1)教室の中は、ほとんど密室状態で、改革前、改革後の姿が見えづらいということ。
2)私学経営がほとんどの専門学校の場合、募集の結果に一喜一憂し、教室内で起こっている教育の実態に目をふさいでいること。
募集なしには学校経営はありえないのは当然ですが、「学生が集まる」=「いい教育」とは限らないということを経営側が自覚しないと、「学校改革」は出来ません。特に中長期戦略を見誤ります。大概の専門学校は、新科、新コースを無節操に乱発し、短期的な営業主義に走ってきました。財政的な基盤の弱い専門学校には中長期そのものが存在しないこともたしかですが、それ以上に経営側が教育に無関心でありすぎたのです。
募集なしには改革も何もあり得ないという経営側の言葉は、厳しい言葉のように見えますが、実は「学校改革」を先延ばしにする口実でしかないことが多かったわけです。学生がたくさん集まってもまったく集まらなくても、その事実を“評論する”ことはできても(そんなことはだれにでもできる)、その事実を“担う”意識が経営・教育側双方にない。要するに、募集結果を学校の内的な過程に沿って自覚できていない。
私の学校でも、私自身が(教育的に)一番不満な科に学生が集まったり、一番自信を持っている科に学生が集まらない場合がいくらでもあります。どこかで目詰まりが起こっているのですが、それが見えない。
目詰まりは、2点考えられます。
1)科のカリキュラムの人材目標自体が間違っているのではないか。特に教育のOUTPUTである業界の動向に対して閉じたものになっているのではないか。だから学校内部で“学生満足度(出席率、進級率、卒業率、在籍率など)”が高くても、企業評価とのずれが生じているのではないか。そういった外部評価が募集に影響を与えているのではないか。
2)科のカリキュラムの人材目標自体や企業評価が高くても、入り口側での広報的な発信がそれとずれているのではないか。高校生や既卒者に対する発信が、学校の中身とずれてしまい、“営業的な営業(泥縄的な営業)”になっているのではないか。中身をいくら変えても、営業部隊が旧態依然な個人主義的営業(=ヒューマンな営業)になっているのではないか。
この2点が、学内評価と外部評価とがずれる要因です。“教育側”でも“募集営業側”でも独善的な態度が横行している。要するに“改革”重視も“募集”重視もあなたの言う「学校改革」を遅らせる要因になっているのです。
もう一つの問題は、対大学問題です。
あなたは、「専門学校の教育に夢を失った」と言う。「学歴社会が崩壊したと言っても、それは表層だけのことであっても、実際は、未だ根強く残っています。私の地域の場合、やはり、専門学校を卒業しても、建築学科の場合、いいところ、ハウスメーカーの営業か、CADオペとして、使いこなされるのがオチです。実社会に戻ってみて、特にそう考えます」。