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存在論的美空ひばり論 ― ひばりはなぜ凄いのか[TV・芸能・スポーツ]
(2005-06-25 22:44:51) by 芦田 宏直


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今日も忙しかった、午前中は学校見学会、午後は大学関係者の会議に出席。家に帰ってきて何気なく「コクーン」(http://www.sony.jp/products/Consumer/cocoon/CSV-EX11/)を開いたら、勝手にフジの「ミユージックフェア」(http://lets-tv.com/837E8385815B83578362834E837483468341/53240.php)を録画してくれていた。

今日は、美空ひばり17回忌特集をやっていた。そう言えば、6月24日が命日だった。彼女が死んでもう17年も経つ。この『芦田の毎日』でも一度美空ひばりについて触れたことがある(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=189&e=msg&lp=275&st=0)。

今日も、五輪真弓の「恋人よ」、玉置浩二の「ワインレッドの心」、梅沢富美男の「夢芝居」などを歌っていたが(85年以降の収録)、聞いていて涙が出るほどにうまい。

美空ひばりのカバーソングが優れているのは、元の歌の作詞家や作曲家が“こう歌って欲しい”と思っていることを見抜いているからだ。当然、元の歌手がそう歌うように美空は歌う。だから、美空の「ワインレッドの心」を聞いても玉置のファンは怒らないはずだ。玉置が歌うように美空は歌う。

しかし元歌のまねにはならないところがひばりの凄いところ。ひばりは、元の歌の作詞家や作曲家が“こう歌って欲しい”というように歌う点で、元の歌手と平等に〈歌〉に向かうからだ。ひばりが歌うとその歌が蘇るという感じか。

司会の鈴木杏樹と恵俊彰は、「ひばりさんが凄いのは、人の歌を自分のものにして歌うところだ」と言っていたが、くだらない解説だ。それはまったく逆で、元の歌はこうだったというように、ひばりは歌う。

だから決して元の歌手を否定してはしない。ましてや鈴木杏樹や恵が言うようにひばりふうにアレンジしているのではない。たぶん、ひばりは、誰よりも元歌手の歌を聞き込んでいる。まるで玉置浩二や梅沢富美男がそこにいるかのように歌い続ける。

にもかかわらず、なぜしかし、鈴木杏樹や恵が思うように、“ひばりふう”があるのか。それは、元歌手の日本語に比べて、ひばりの日本語が格段にきれいなことと声の音色がはるかに元歌手よりも(歌手の誰よりも)多様だからだ。

日本語のパワーと音色の多様さ(まるでアルピナのエンジンのような)が、元歌手の歌を変えてしまうくらいに圧倒しているのがひばりの歌だ。

ひばりの歌(の日本語)は、普通に人がしゃべっているような日本語のままに歌われる。そしてその言葉がもっともその意味を伝えうる発音と音色で歌われる。これに勝てる歌手はいない。

ひばりは誰が歌う歌よりも、〈原作〉(の日本語の音)に近い歌を歌える歌手なのだ。というよりも、音楽も楽器ももともと人間の声と語りを展開したものにすぎない。

人間の声と語り以上の音楽も楽器もありはしない。だから、ひばりの歌は演奏までもが神経質になる。それはひばりが大御所で“こわい”からではなくて、ひばりの声がそれ自体楽器だからだ。寸分のミスも許されないくらいにひばりの声は楽器の演奏によくとけ込む。

私は、この原稿を書いている間中(帰宅してずーっと)、「夢芝居」を聞き続けているが(

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