みなさん、ご入学おめでとうございます。4校を代表して祝辞を述べさせていただきます。
期待に胸ふくらませている皆さんを前にして、私は、皆さんにお話ししておきたいことが三つあります(いつも話が長くなって、みんなから怒られていますので、今日こそは短めに、と思ってお話をしますが、今日もどうなるかわかりません)。
一つは、私どもの学校は、学生よりも教員が日夜勉強している学校だということ。
それは先生が勉強不足なのではなくて、教員自身が毎日毎日勉強を続けなければならないほど、社会の変化や技術の高度化のスピードは速く、就職戦線に勝ち抜き、次世代をになう人材を育成するには、まず何よりも教員自身が時代の先行きをいち早く察知し、新しい知識と技術の動向を予感し、自ら学ばねばならないということです。
高校までは、教科書を使って安定した知識と技術を学べば良かった。安定した、というのは、基礎知識・基礎技術ということでしょうが、出口がもはやもう一つの学校ではなく、実社会であるあなたたちは、基礎以上の、実践的な勉強をする必要があります。
基礎以上の実践的な勉強をできる環境の核心は、教材や設備が整っているなどという学校広報にありがちな中身なのではなく、教員自身が日々自己研鑽を積む学校であるかどうかということです。
学校の最大の財産は教員です。
先生が学ぶ姿勢のない学校で、学生が学ぶなどということはあり得ない。自ら勉強しない先生に「勉強しろ」と言われて誰が勉強する気になりますか。そんなことはありえない。
教えるということは、教える者自身が自ら学ぶということです。それがわれわれの確信です。
流れの速いインターネット時代の今日において、教える=自ら学ぶということはますますその核心を露呈しつつあります。
教室でも教室外でも毎日のように今日の授業の成否を教員自身が問うている学校は私どもの学校以外には存在しません。
その意味で、みなさん、よくもわが学園を選んでくださった、と感謝しております。“感謝”というよりは、広報的な営業が目立つ専門学校選択にあたって、よくも実質を選んで頂いた、と(失礼ながら)“評価”しております。
ぜひ安心して学んで頂きたい。絶対の自信を持っていますし、今後の皆さんの成長を楽しみにしています。
第二に、若いみなさんは、器用な人物になるな、ということです。重宝がられる人間になる必要はないと、私は言いたい。
大学生と専門学校生との違いは、「コミュニケーション能力」だとか「自己表現力」の有無だとかよく言われます。
専門学校生は知識や技術はあるが、コミュニケーション能力だとか自己表現力がない。そうよく言われます。
大学生でさえ、そんな能力はあまりないのですが、それ以上に専門学校生はそういった能力に欠けると言われています。
なぜか。それは専門学校生は、朝から晩まで学校の教室に閉じこもり、勉強ばかりして街に出ることがないからです。
その半面、授業にまじめに出ないでアルバイトに走ったり、合コンに走ったりしている大学生の方がはるかに「コミュニケーション」能力や「自己表現力」を培う機会を多く持っている。学ばなくても、放って置いてもそんな能力はつくようになっているのです。
しかし心配することはありません。若い頃から話のうまい者にろくな人間はいません。
そもそも、コミュニケーションも表現力も、〈何を〉伝えるのか、〈何を〉表現するのか、その「何」なしには、空虚なテクニックに過ぎません。伝えたい中身が形成されていくからこそ、コミュニケーションや表現力が(自然に)必要となるのです。
若いみなさんが心がけることは、まずその〈何を〉の中身を形成することです。テクニックが足りないと嘆く前に、中身が欠けている、中身が足りないことをよくよく自覚することです。
わが専門学校の2年間、3年間は、みなさんのちょっとばかり生意気になりかけた中身についての自信、つまり“知ったかぶり”をことごとく打ち砕くためにあります。
日々研鑽を積んでいる教員が、これでもかこれでもか、と練りに練ったカリキュラムがみなさんを待ちかまえているわけです。
なぜ、こうも私は知ったかぶりをしていたのだろう、なぜこうも私は物事を知らなかったのだろう、そういった連続の2年間、3年間がわれわれのカリキュラムです。
知ったかぶりを乗り越えて中身自身を形成すれば、おのずから本来の〈自信〉というものが生まれます。これだけは誰にも負けないという自信が自然に生まれます。それが他人からみれば、〈信頼感〉に変わっていきます。それこそが、本来のコミュニケーション能力、表現力です。コミュニケーション能力、表現力というものはテクニックやノウハウとは無縁のものです。