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我が息子の母校(都立戸山高校)で、例の卒業式の国歌問題が生じたらしい。今日の『朝日新聞』の夕刊で、卒業生の一人が、校長から卒業証書をもらった後に、マイクを取って「君が代斉唱で生徒が座っていないかをチェックして先生を処分する。教師を人質に取った思想統制と私は考えています」「自由と自主性が戸山の伝統なのに、都教委の『進学指導重点校』に指定され、(戸山は)変質してきた」などとその生徒は壇上で語ったと『朝日』の夕刊は伝えている(『朝日』が好きそうな記事だ)。
そう言えば、この学校は4年前の息子の入学式でも、君が代斉唱の時に、「起立は強制しません」と(教員が)バカなことを言っていたことを思い出した。昨年、私の息子が卒業したときに(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=276) ― ちなみに息子の太郎はこの一つ下の後輩のことをよく知っているらしい ― 、こんな生徒が出てきたら、「ちょっと待て」と叫んで「おまえ、間違っているぞ」と以下のような説教をするだろう(その機会がなく残念!!)。
ここで、息子の入学式に参加して書き綴った記事を再録しておく。私は右翼でも保守主義者でもまったくないが、左翼崩れは脳天気な右翼以上にもっと嫌いだ。
●都立校「君が代」(国歌斉唱)問題に思うこと(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=325&e=msg&lp=325&st=80)
2001/4/11(水)00:16 - 芦田宏直 - 369 hit(s)
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先週の土曜日(7日)に息子の高校の入学式に行って来た。入学式が始まったとたんに、君が代斉唱だったが、突然司会者が「思想・信条の自由がありますので、起立、斉唱は強制しません」。
びっくりした。父兄も戸惑う。最初にごく少数、数人の父兄が立ったが、その目立ちようが異様だった。緊張感が異様。歌い始めてからも、ゆっくりぽつぽつと立つ人がいたが、その遅れがまた、父兄たちの動揺、不安をあらわしていた。入学式の最初がそうだったから、最後まで不快感が残ってしまった。まずい学校を選んでしまったな、と思った父兄もいたかもしれない。入学式にこんなことを考えさせる学校もめずらしい。
いったいどういうことなのか。なぜ、“国旗”や“国歌”についての取り扱いが「思想と信条」が違うと自由にしていいのか。「思想と信条」が違うと国歌や国旗は“自由”に扱っていいのか。そんなことを言い出すと校歌、社歌の場合はどうなるのだろう(この学校は校歌を唱わせるときは「一同起立」と命令していたが、なんとこの学校の校是は「自主、自立」だと何度も誇らしげに語っていたのに … )。
校歌や社歌は、その人が選んで入った学校や会社だから、「思想と信条」に反することはあり得ないのだろうか。それであれば、国家だって、国籍を変えることが絶対的に不可能だということでもない。そもそも「思想と信条の自由」ということ自体が国家の精神であって、「思想と信条の自由」のない国家だっていくらでもある。
「思想と信条」が違うから歌えないというのなら、それは「君が代」に反対しているのではなくて、国歌そのものに反対しているのだろう。どんなに民主的に国歌を決めたとしても、国歌というものはその国家にとって一個しかないだろうから、個人的な「思想と信条」の違いは出てくるはずで、となると「思想と信条」で反対する人は、国歌=国家そのものに反対していることになる。それは「他人(女性)のいやがることをすることがセクハラだ」という“定義”とほとんど同じくらいにくだらない理由でもって、国歌=国家に反対しているのである。
こういうこと(国歌や国旗、あるいは国家そのもの)に違和感をもつ人たちがいるということは、誰でもが知っている。たぶん直接には第二次大戦での中国、朝鮮半島を含めた東南アジアへの日本の“侵略戦争”に対する反省からそうなのだろう。国歌や国旗は、その“侵略”の象徴だったからだ。それを否定する気はない。
しかし国歌や国旗というもの、あるいは一国の歴史というものはそういうものだ。悪いこと、良いこと含めて一国の歴史だ。何を悪いこと、何を良いこととみなすかどうかは議論のあるところだろうが、悪いことを刻印していないような国旗も国歌(あるいは国家)もこの世には存在してはいない。
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