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「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」の今日的意味[教育]
(2003-08-10 18:11:08) by 芦田 宏直


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●「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」の意味(1)

 1)「いつでも」学べると「どこでも」学べるとは、質的に違うことを意味する。

 社会人教育と学生教育の異なる点は、それが仕事をしながらの学びであるかどうかだ。明確に失業者教育に絞ることができるとすれば、学生教育的な時間割で拘束した教育ができるかもしれないが(それでも失業者は職探しで忙しいということは充分に考えられ得ることだが)、通常の生涯教育、という点で考えれば、学習中心のスケジュールを考えることは社会人にはまず無理だ。だから、「いつでも学べる」「どこでも学べる」ということは大変重要な要件になる。

 「いつでも学べる」「どこでも学べる」の究極の学習形態は、インターネット時代における「ディスタンスラーニング」や「e-ラーニング」と呼ばれているものだ。これは、前回言及した「フリータイムレッスン」を超えた(?)学習形態のようにも思える。「フリータイムレッスン」は、「いつでも」は実現しているが、「どこでも」は実現していないからだ。

 インターネット常時接続が家庭でも当たり前のようになってくると、インターネット常時接続を前提にした「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」がどんどん開発され始める。「ゴルフレッスン」「魚釣り教室」のようなものは、ビデオ教材などで最初から「ディスタンスラーニング」(いつでも・どこでも)だったが、コンピュータをメディアにすれば、かなり高度な(インタラクティブな)「ディスタンスラーニング」(=e-ラーニング)が可能になる。

 「いつでも、どこでも学べる」。その意味では、インターネット時代の社会人教育は、インターネットで学ぶ、ということが主流になるのかもしれない。

 しかし、「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」は、「これからの時代の…」と言われながらも、成功事例が少ない。“その”時代にもかかわらず、原始的で、仕掛けも単純な「フリータイムレッスン」の方が、あるいは古典的な「教室講座」がまだなお生き残っている。

 理由は何なのか? 

 理由ははっきりしている。「いつでも・どこでも」という要素が強ければ強いほど、逆にそれは「いつでも・どこでも」他のことができるという時間・空間であることから、その中でパソコンに向かうということは、きわめて強い学習意識(その時間、その場所で他のことはしないという)が要求されるということだ。

 つまり、「いつでも・どこでも」学べる時間・空間は、テレビで野球も見られる、読みかけの雑誌も読める、すぐにでも寝られる、そういった様々な誘惑の時間・空間であって、これらをいちいち振り切って、学ぶことそのものに集中しなければならないきわめて不自然で・人工的な時間・空間なのである。言い換えれば「いつでも・どこでも」勉強できる、といかにも自由に思えた環境は、きわめて不自由な環境でもあったのである。

 「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」の隆盛な米国でも、成功事例の多くは、最初、企業内研修が中心だった、というのがその証拠だ。閉鎖された空間(や時間)でないと緊張感が持続しない。管理者がいない(“上司”が見ていない)と持続しない。「e-ラーニング」の多くが進捗管理や成績までも管理して、業績評価に結びつけたりしているのは、「e-ラーニング」の「いつでもどこでも」という過度な自由さが過度な管理なしには機能しないことを物語っている。

 したがってそういった管理のない家庭で、家族がくつろいでいる家庭で、ひとりもくもくとパソコンに向かう、ということがいかに禁欲的な学習か、ということは明々白々だ。もし、教室に通うことなく、自宅ででもできるという「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」があるとすれば、自宅(個人学習)であっても、ある種の“管理”の仕組みを形成するか、それとも1ヶ月以内で海外転勤を命じられ、急に英語をマスターする必要が生じたというような、期間が短期間に限られ、目標や成果も明白なものが求められる場合だけだ。この場合は、くつろぐ家族に背を向けてでも孤独にパソコンに向かうしかないだろう。

 したがって、「ディスタンスラーニング」「e-ラーニング」が機能する場面は、現状では極めて限定されている。

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