今日(24日)は夜の七時半から9時までNHKで阿久悠特集(http://www.oto.co.jp/otoakuyuu.html)があった。
私にとっての阿久悠は、やはり北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』(1970年)だが、『ジョニーへの伝言』(1973年)の「友だちならそこのところうまく伝えてよ」もいい。「そこのところ」なんて、歌詞に入れることができるのは阿久悠だけだ。
今でも気になるのは、和田アキ子の1972年『あの鐘を鳴らすのはあなた』の「希望の匂い」。「匂い」はないだろう、と最初に聞いたときから気になっている ― この歌は、阿久悠が「女性ボーカリストの限界を越えて欲しい」と和田アキ子に念願して書いた詩だ。そう阿久悠が熱く語っていたのを今でも覚えているが、この歌から以後和田アキ子は少しもうまくなっていない。むしろたばこで声をダメにしていてとてもプロとは思えない。
●ざんげの値打ちもない(http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?PDID=20019107)
(阿久悠作詞 村井邦彦作曲/1970年)
あれは二月の 寒い夜
やっと十四に なった頃
窓にちらちら 雪が振り
部屋はひえびえ 暗かった
愛と云うのじゃ ないけれど
私は抱かれて みたかった
あれは八月 暑い夜
すねて十九を 越えた頃
細いナイフを 光らせて
憎い男を待っていた
愛というのじゃ ないけれど
私は捨てられ つらかった
そしてこうして 暗い夜
年も忘れた 今日の事
街にゆらゆら 灯り付き
みんな祈りを する時に
ざんげの値打ちも ないけれど
私は話して みたかった
「あれは」−「やっと」―「窓に」−「部屋は」、「あれは」−「すねて」−「細い」−「憎い」と一番、二番の頭の詞は、この歌の作曲家・村井邦彦(グループサウンズの歌ばかり作っていた村井邦彦は実はこの歌で一曲で充分歴史的である)の技量で意味的な韻を踏んでいる。このアクセント全体を「そしてこうして」と三番の歌い出しと全体が受け止めている(この歌は3番まで連続して歌わないと意味がない)。
北原ミレイの独特な声は、二番の「細いナイフを光らせて」という歌詞を歌うためのものであるように(太い声質のくせに)鋭利な切れ味のある声になっている。「あれは二月の 寒い夜/やっと十四に なった頃」と最初に聞いて、私はこの歌は演歌ではないと思った。十四の不幸など(私はそのとき16歳だったが)、1970年代(高度成長のまっただ中)の日本人はずーっと昔に忘れた不幸(忘れかけていた貧乏な不幸)で、この不幸の喚起の仕方が人工的な分、むしろ衝撃的な歌だったのである。高度成長の世間の流れに背を向けていた新人・阿久悠の私生活がよく感じ取れて、その反発感が北原ミレイを(敗北感漂う70年安保世代の)大学の学園祭の女王にしていた。
西田敏行『もしもピアノが弾けたなら』(1981年)は歌よりもテレビの『池中玄太80キロ』(http://village.infoweb.ne.jp/~kagibori/ikenaka/index.htm)が面白かったが、西田敏行はもう俳優としては終わっている。10年以上前から入れ歯になってしまって、せりふ(発声)が口内に籠もっている。入れ歯で上唇の肉も落ちてしまった。今日の阿久悠特集でも栄光の4番目(尾崎紀世彦・『また逢う日まで』1971、ペドロ&カプリシャス『ジョニィへの伝言』1973、沢田研二『勝手にしやがれ』1977に続いて)に出てきたが、この歌を歌っていた頃(の「池中玄太」時代)が彼の絶頂だったのかもしれない。ときどき世田谷の『ヤマギワ』(今は石丸電器に変わってしまった)のCD売り場で見ることがあったが、和田アキ子のたばこといい、西田の入れ歯といい、こういった人たちは健康管理が命取りになる。「芸能人は歯が命」というコマーシャルがあったが、普通の人は(私の家内のように)普通に病気になるが(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=124)、この人たち(芸能人)は、健康が芸のすべてであるように生きている。そのことを忘れてしまってはダメだ。