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【第2版】大学は、?自分探し?の場所ではない ― 松山道後新キャンパス総合心理学部新入生歓迎8,500字講話(2025年4月26日)[これからの大学]
(2025-04-27 09:27:20) by 芦田 宏直


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●大学は、?自分探し?の場所ではない。
※この講話(約90分)は、16枚のパワポスライドを使ってなされました。掲載にあたっては、その場合の箇条書きをそのまま使用しています。行間が読み込みづらいところもあるかと思いますが、ご寛恕を。

大学は、〈他者〉が何を考えているのかを考える場所。「自分」「私」なんて死ぬ直前にふと思うくらいで充分。

ここで言う〈他者〉とは、先生であり、先生が典拠している書物であり、現在までの歴史の全体です。現在そのものが歴史です。

大学の先生がもし立派に見えるとすれば、それはみなさんより書物を読んでいる分だけのこと。それ以外に先生が立派な理由などありません。素の言葉で、自分の言葉で話している先生なんてくそ食らえです。先人の諸々のパワーを継承しているからこそ、先生は立派な人なのです。

勉強するということは、人類が築いてきた文化的な資産(世界と世界史)を、すべて受け継ぐということ。世間の大概の人は、いずれかの過去の水準(終わってしまった間違い、終わってしまった悩み)の世間にとどまっています。〈現在〉の意味が狭い。大学と大学の図書館だけが世界史を体現できる場処です。

〈こころ〉とは何かについて、日夜、寝食も忘れて、生涯をかけて考え続けてきた人が、世界(歴史)にはいくらでもいるわけです。その世界史によって、〈こころ〉とは何かの議論も成長してきたのです。自分を探している場合ではなくて、その人たちの成果をまずは探すべきなのです。

〈心理学〉を学びたいのなら、教えを請う先生と書物はいくらでもあります。大学の先生とは、大学でしか読めない書物の読み方を教えてくれる先生のことです。

「自分の感想、自分の意見も必ず添えて」と、皆さんは、高校までの「感想文」を書くときに先生に指導されてきたと思いますが(文科省の指導要領にもそうあります)、それは、大学では明らかに間違い。

本を〈読む〉とは、他者の〈こころ〉に盲従して、その人が自分のそばに居なくても、その言葉でその人の?こころ?を再現できるようになることです。夢にまで著者の言葉が出てきたらしめたものです。

「その人(先人)が、いまこの問題、このこころの問題に答えてくれるとしたら、どんなことを言うのだろう」。2000年前に書かれた書物(古典)でさえ、〈現在〉に対して最適な解答を有しているのです。まさに勉強するというのは、この切実な問いに明快な答えを得ることです。世界史を再現するとは、一気に2000年遡れることと同じことを意味しています。2000年も遡れば、その手前は大概見えてくるのです。

私の意見を言うまでもなく、その著者が代弁してくれているというところまで行けば、その本を読めたことになります。そういう本に出会う場処が大学という場処です。そういう経験のない人が一冊の本にケチを付けることなどしてはいけません。そんな資格はない。大学の先生は、「私が私を忘れて」一体化できる本の、内容的な案内人にすぎません。

〈本〉というものが、そこまで普遍的なのは、お金のあるなしにかかわらず平等・公平に万人に開かれているものだからです。太宰治の本も、名もない著者の本も値段は変わらない。図書館へ行けば何冊でもただで手に入れ、読むことができます。世の中でお金のあるなしに影響を受けないものは、本の価値です。その意味で大学というところは平等の起源だと言えます。


●〈私〉はどこにあるのか ― 〈私〉は存在しない。

〈私〉は、私が見ているもの、私に見えているものの中にしか存在してない。その外には〈私〉は存在していない。私は何を見ているのか、その「何を」の「何」がすべて。私の内部を覗いても、覗く私はまた表面に浮き出てしまうからです。見ている私を見た人などいない。

私を鏡などで見ているときにも、私と鏡との?関係?をすでに前提しているのであって、私自身を見ているわけではありません。〈私〉は、私を鏡に映しているということを、つまり私と鏡との?関係?を見ているわけです。

〈私〉は、認識の外へ、外へとはじき出され続けているのです。〈私〉の主体性(主語性)は、主体化(主語化)できない。対象objectの強度が、私subjectの強度です。

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