●「長い-時間」=「退屈」としての学校教育
芦田 学校教育はその対極で、閉じ込めて、外に出づらい雰囲気で拘束している。e-Learningは「ねむたい」と思ったら止められるから。学校では教壇がちょっと上にあって、講堂の権威があって、式典までもあるから、ちょっとした不良でも静かにしなきゃいけないと思うような仕掛けになっている(これくらいでは最近はなかなか通用しなくなってきていますが)。
「やりたいことをやっている」っていうのは、動物が腹へったら飯食うのと同じで、勉強っていうのは嫌なことを勉強するとき勉強なんですよ。どんな暴走族でも交通事故のビデオ見せられると、何分かは「やっぱ俺はもうスピード出すの止めよう」と思うんだけど、もうすぐに忘れてるから(笑)。刺激が高いほど忘れるのも早い。刺激でしか動けない動物はだから〈学習〉から遠いわけです。
だから学校教育は、そういうことを長い時間にわたって「理解しましたか、理解していないと次に行けませんよ」と、一つの体系(長い時間)の中で繰り返しらせん状にやっていきます。これは、人間にしかない「時間」です。これだけ「退屈」な「時間」をかけて、じっくり教育していって、手順を踏まないとわからないことを教え続けていって、一人の主体(人格)を形成していくわけですから。
教育基本法第一条にも「教育は、人格の完成を目指し…」と書いてある。教育が前提するのは〈人格〉そのものではなくて未完成の人格なのです。ここを通過しない人たちの人生は悲惨ですよ。人格が完成しないまま学校を通過するのですから。だから四〇歳とかで「勉強好き」な人がいるじゃないですか、会社の中で絶対嫌がられているでしょう。課長とかでも、週末に読んだ本を「お前、これはいい本だぞ、ちょっと読んでこい」とか言って、バカだよね(笑)。社員はいい迷惑。そもそも社会人の本来の?テキスト?は、社会や現場そのものなのだから。社会で学ぶ勉強は、書物を読むことではない。学生時代に、専門書を読む訓練をしてこなかった人ほど中途半端な読書家になって、やっていることは経験主義みたいな人はいくらでもいるわけです。?本好き?なんて、一番嫌われる社会人です。
【「自由な学びの主体」のウソ】
●「学びの主体」を尊重する人は、家族主義者
芦田 「最新学習歴」主義について、もう一つ言えることは、テッドネルソンが1960年前後で提唱したハイパーテキスト論です。これはあきらかに本間先生の思想に近い。要するに学校教育体系に対する否定です。学校教育体系とは、一言で言えば、初級・中級・上級主義のことです。平等に扱われるクラス授業において、行儀よく教科書や先生(指導者)に付きながら階段を一歩ずつ上っていく教育です。