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※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで137000文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約342枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。
なお、この記事は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【1】と【2】に分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打っています。この形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろしくお願いします。→大学カテゴリーランキング
※文中、書籍の縦書きを想定してほとんどすべての数値を漢数字にしています。悪しからず。
※本文中、(●)などの表記が見られる場合は、その前に来る言葉の傍点ルビや読みがなルビを意味している。●が一個だと前の文字一つのルビ、●●と2個だと前の文字二つのルビなどを意味します。
※以下目次表記の中で※印と共に連番が打たれたものは、本文註に連番を付けて見出しを付けたものです。本文の註には見出しを付けずに連番しかありません。あしからず。註は註1〜註52まであります。
(一)一九九一年「大綱化」以降のシラバス
? カリキュラム自由化とシラバス
「シラバス」は、通常「授業概要」「授業計画」「科目概要」などと言われている。一九九一年の「大綱化」以降(一九九一年「大学教育の改善について」大学審議会答申とそれに基づく大学設置基準の改正)、カリキュラムが自由化されて選択科目が増えたこともあり、それ以後「シラバス」は年々充実(詳細化)してきた。選択科目が多くなればなるほど、受講する前に科目の詳細を学生が知りたくなるのは自然なことだからだ。(※1)
※1 カリキュラムの「大綱化」=「自由化」と選択科目の増加とは必ずしも同じことを意味しないが、中曽根臨教審に発する「個性重視の原則」に発する「新ゆとり教育」 ― 臨教審の第一次答申「個性重視の原則」一九八五年は、一〇年後の一九九六年中教審第一次答申における「生きる力」養成における「個性尊重」という言葉に引き継がれていく ― が選択科目の増大に影響を及ぼしたことは否定できない。「個性重視」の教育がどんな害悪を生んだかについては本稿第五章で触れる。なお、この答申を契機に、「シラバス」「オフィスアワー」「セメスター制」「GPA」「授業評価」など、「アメリカで開発されてきた、あまり勉強したがらない学生、あまり教育したがらない教員を学習と教育に向けて動機づけ、さらには強制する様々な装置がわが国の大学にも導入されるようになりました」と天野郁夫は指摘し、これらの「装置」を横文字の「小道具」とも言っていたが(天野郁夫『大学改革を問い直す』慶應義塾出版会、二〇一三年)、私のシラバス論の全体はそれとは別の観点からのものである。
この選択科目の便宜のような、ただただ分厚いだけのシラバスを潮木守一は「電話帳シラバス」と呼び、「学生に役立たないだけではなく、教師にも役立たない」と言っていた(『大学再生の具体像(第二版)』東信堂、二〇一三年)。しかしその詳細化は、単に科目選択の便宜のためだけではなかった。自由化されたカリキュラム全体における各大学(各学部、各学科)独自の人材目標をどのような仕方で実現しようとしているのかを明確化するためには、各科目内容の詳細化は必須だったのである。「大綱化」の自由 ― 二〇〇八年(中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」)の転回(●●)(※2)まで続く「特色ある」大学形成 ― は、各大学が自ら取り組むカリキュラム自己管理や科目自己管理と引き換えのものだった。
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