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私立中学受験に私は反対する(学歴社会とは何か) ― 子どもを愛せない親たちに再度捧げます。(2009-01-26 11:29:53)へのコメント

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by ブルースカイ(2009-10-06 09:13:22)

お忙しい中、早速ご返答ありがとうございます。

御察しのとおり、息子は見方によっては、幼少の頃からかなり嫌なヤツです。クセが強く、決して万人受けするタイプではありません。

公立をよく知る知人からは、「あまりの個性はつぶされるよ」と言われたほどです。それも親子で受験を考えた理由のひとつです。

子供と言っても、千差万別。公立向きの子も、私立向きの子もいるでしょう。

物事には、すべて正負の面があって、「中学受験」も然り、と思います。要は、本人がきちんと通えるか、だと思います。あまりに向いてない学校に行けば、足が遠のいてしまうかもしれません。

養老猛さんや浅田次郎さんは、受験組ですが、母校や旧友についてかけがえのない存在と述べてらっしゃいます。公立に通った方でも、同じような感想を持つ方も多いでしょう。

私は、何も諸手をあげて受験を礼賛しているわけではありません。本人が長じて、あるいは壮年・老年となった時に振り返って、「あの学校に通ってよかったな」と思えれば、公立であれ、私立であれ、いいのではないか、と思います。

また、社会に出て、あまりいい大人に出会えないのであれば尚更、少年期にいい恩師に巡り会うのは大切とも思えます。

何事も、白か黒かで、割り切れないと思うのです。


by ashida(2009-10-08 23:31:32)

私は公立か、私立かといっているのではなくて、私立に「子供が希望するので」などと言って進学させている親には子育て放棄の傾向がある(あるいは中流幻想の傾向がある)と指摘しているのです。

「白か黒か」の議論に拘泥しているのは、むしろあなたの方です。今あなたが吐露された息子さんの傾向は私立に行っても決してなおりはしません。

子供に「個性」などあるわけないじゃないですか。そんなこと言われてまた息子を甘やかしているわけです。子供にとって大切なことは、「子供らしさ」です。

私立に行かせる親の子供は、いつも私立か公立か以前のところで子育てに失敗しているのです。


by ブルースカイ(2009-10-09 12:51:11)

度々ありがとうございます。

ご参考までに一つの意見と思いお伝えしたまでですが、僭越でしたね。どこまでも「私立」というだけで、そこに進学させる親を育児失敗と決め付けられるようですね。

ちなみに、最初に申しましたように、我が家は国立希望です。うまくいかず、結果「私立」ということも大いにありますが。

息子の傾向はクセはありますが、決して直すべきものではないと思っています。ステレオタイプ的な「明朗活発な子」を良しとする一部の人には、「嫌なやつ」とうつる可能性はありますが。

幸い、公立小学校の先生方にも高い評価をいただいています。わざわざ個性をつぶし(それこそ彼の「子供らしさ」をつぶすことです)、枠にはまった「つまらない大人」には絶対したくありません。子供に個性ナシという極論にも、心底驚かされました。

私はただ、子供の向き・不向きを全く考慮せず、また本人の意向を無視して、中学受験にひた走る親も、「私立」というだけでひとくくりにして言下に否定する親も、どちらも本当に我が子を愛する親の姿とは思えないのです。

親の意見を押してつけているばかりで、選択肢を狭めているように感じます。勿論、最終判断を下すのは親です。

だからこそ、親には多角的に物事を見る目が必要と思います。

公立の荒波にもまれ、その経験を人生の糧にすることが出来る子もいれば、波に呑まれてしまう子もいます。

子供が何人かいれば、その子その子で対応が分かれるのも至極当然です。うちの場合は上は受験、そして下は恐らく公立進学となるでしょう。

突然お邪魔して、色々申しました(私自身の調べものをしていたら、行き当たりました)。世の中には様々な信念をお持ちの方がいると知っただけでも、私にとっては収穫です。


by ashida(2009-10-09 19:11:25)

わからないひとだなぁ。

私は55歳の今になっても自分が何に向いているのかわかりません。それを小学生(ごとき)で何が「子供の向き・不向き」ですか。

「個性」も同じことです。子供は「多様」ではあっても「個性」的であるはずがありません。中身がまだないのですから。それは18歳〜22歳の大学生に「個性的な」プレゼンを求めるのと同じ空虚というものです。

「子供らしさ」と私が言うのは、「元気」とは何の関係もない。情報量が少ないため何をやるかわからない、逆に何にでもなれる、可能性が全くないことと可能性だらけであることとの両極に引き裂かれているのが「子供らしさ」というものです。

私は長い間、高等教育に関わっていますが、彼ら学生の情報量なんてたかがしれています。判断、行動、進路選択も無知の連続です。「無知」はこの場合、いい意味でも悪い意味でもそうです。

「個性」なんて、一押しか二押しすればすぐに代わる程度のものです。高等教育でさえそんなものですから、小学生なんてどうにでもなります。「どうにでも」というのは小学生をこころから尊重するという意味でのことです。

あなたはまたご自身の文面で「幸い、公立小学校の先生方にも高い評価をいただいています」などとバカな事を書き付けています。小学校の先生くらいに「高い評価」をもらっていることが、どう、私とのやりとりに必要なのですか? 

「先生」なんて一番「評価」が当てにならない連中じゃないですか。

「私はただ、子供の向き・不向きを全く考慮せず、また本人の意向を無視して」なんて言う人に限って、「高い評価」を口にするわけです。

その傾向を、私は指摘しているのです。「信念」の話ではありません。観察の結果です(苦笑)。


by AGNOSTICISM(2009-10-09 20:30:55)

>元から(子どもは)親殺しのために存在しているのですから。 ← 同感です。

ただ英語・数学・国語・理科・社会の偏差値が高いというだけで息子を カトリック系の中高一貫校 に進学させましたが、“聖書”もまともに読まず、いまだに親父の携帯のメールも返信してこない馬鹿息子に育ちました。

現実的な(動物的な、植物もか?)本質は、子孫を この世に残したことで、親の役割を果たしたのかもしれませんね。

教育は、未来への行為において、より一層立派に働くことのできるように、その経験を獲得させていく過程である。

教育は決して他人と競争させるためのものではなく協調と発展のためにのみ存在するのです。

ちなみに、筆者の公立高校受験は全人教育の指針のもとで、保健体育・美術・技術・家庭科もありましたよ。


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