by ashida(2008-05-02 18:47:51)
ある方から、この記事のコメントを偶然頂きました。誰も読んではくれないだろうなぁ、という記事だったので、ありがたいと思いました。ゴールデンウィークならではのやりとりです。ミクシィ(MIXI)かた転載しておきます。
>Mさん 2008年05月02日 15:10
芦田さんの日記は、いろいろと参考になり読まさせて頂いております。
今回の哲学に関しては私にとってはかなり難解でした、
初歩的で大変申し訳ございませんが、人生哲学、野球哲学、などとよく言いますが、一言では難しいとは思いますが哲学とは何なのか、を教えて頂ければと思いご連絡させて頂きました。以上宜しくお願い致します。
>私の返答
哲学とは何か?
難しいことを答えることになりましたね。
私の個人的な動機からお話しするのが、一番いいかも知れません。
ミクシィ(MIXI)のプロフィールにも書きましたが、哲学に関心をもった理由は、哲学だけが、経験や年齢や物理的、生理的な制約を超えた自由な領域だと思えたこと。哲学という領域の純粋思考(領域を超える思考)こそが人間を自由に解放すると思えたからです。
特に高校に入学して、はじめて色々なところから色々な能力をもった人たちが集まってきたときの体験がいまでも鮮烈です。中学というのは、まだある種の同質性に満ちていましたが、高校は違う、と当時思いました。
私はその時、中学時代から熱心に取り組んでいたテニス部をやめて、新聞部(新聞局)に入りました。いい歳をして運動部でもないだろう、と思ったのです。
私の中学のテニス部は8年連続府大会(東京で言えば「都大会」)に出場するくらい強い伝統のあるクラブでした。
同志社大学の学生が、中学のクラブの先輩にいて、いつも夏休み毎日教えに来てくれていました。私の現役引退の練習最後の日になぜか私だけがコートに誘われ、30分くらい乱打をしました。お互いくたくたになるほど打ち続けた後、彼がネットによってきて「お前に教えることはもうない。高校へ行っても続けろよ」と言ってくれたのを今でもよく覚えています。
あこがれの大先輩でしたが、結局私はその教えを破ってしまいました。いまでも気にしています(苦笑)。
そんな中で、私は新聞部に大転向したわけです。そこにはたくさんの先輩がいて、大した意見ももっていないくせに偉そうにしていました。テニスなどの運動部であれば、誰がうまいか下手か、強いか弱いか、誰を目指せば自分がうまくなるのかなどすぐに決着が付くのに、この文系の部活動の停滞感は私には耐えられないものでした。
運動部に「先輩」はいても、文化部の活動には「先輩」なんていないだろう、と私は、新入生歓迎編集会議が終わった(誰も残っていない)部室の窓から顔を出して(中学とは比較にならない)大きな高校の中庭に向かいつぶやいたものです。
「真理」はすべてを平等にする、と思ったわけです。文化部に年の差による階級なんてあるのはおかしい、と思ったわけです。正しいことを言えば勝ちだろう、と思ったわけです。
それが私の“人生”における“哲学的な”出発点です。まず年齢(=経験)というものが私の敵でした。年齢を超えたいと思ったわけです。
科学(Science)はどうか。科学は実験道具が要ります。お金(パトロン、スポンサー)がないと〈真理〉が発見できない。歴史や文学(批評)は、文献がないと(文献を読まないと)〈真理〉に近づけない。文献を読むには時間がかかる。歴史文献なら、科学と同じように大金がかかる。司馬遼太郎なんて一回の小説を書くのに神田の古書店街でトラック一台分の本を買っていたそうですから。
その分、哲学は〈思考〉と〈問い〉のみが自分の“道具”。何もしないでもどこにもいかなくても純粋思考だけが自分を自由にすると私には思えたわけです。
哲学にとっては文献を読むということは、文献を読まなくてもいいようにするためであって、逆ではありません。ひたすらそういった道具を削ぎ落としていくのが哲学というものです。そういった軽快感が若い私には魅力的でした。哲学は永遠に若い領域(脱領域)なのです。その若さや軽快感が、〈世界〉を全体的に見ることを可能にするのです。
〈哲学〉はその意味では限りなく〈文学〉(小説)に近いと思います。
とりあえず、今日はここまで。何か質問はありますか。