by ashida(2008-04-29 09:24:39)
●同一記事でのミクシィ(MIXI)の感想
>Hさん 2008年04月27日 20:18
本文の本筋とは離れて恐縮ですが、芦田さんは、ヨーロッパ映画は、ご覧にならないのですか?
有名な、ゴダール、レネ、ブニュエル、タルコフスキーなど、哲学やる人が見ているような映画です。そういう映画の芦田批評を読んでみたいと思ったのです。もしそういう映画は関心がない、ということでしたら、その無関心の理由などのことを読んでみたいと思ったのです。
>Hさんへの返信 2008年04月27日 22:31
タルコフスキーやアンジェイワイダは昔よく見ていましたが、今は見ません。フランス映画は基本的に嫌いです。バカなくせに生意気なだけです。
そもそも「哲学やる人が見ているような映画」というのは、何を意味していますか。映画に哲学も何もないでしょう。
そんな意味でならタルコフスキーもアンジェイワイダも大したことないですよ。70点台くらいかな。
あなたの質問が意味を持つとすれば、自分が知らない映画よりは、有名な映画の方が私(=Hさん)にも関心が持てるという場合のみです。
それにそもそも映画で哲学を感じることなんてありますか。感じるとしたら、あなたの哲学や文学や思想の水準が低いのですよ(苦笑)。
あなた(たち)の最大の問題は、メジャーな王道の思想家や文学者を論じていれば、自分もメジャーになったように錯覚することです。
しかし私の「哲学」は、ウォッシュレットや携帯電話や掃除機を、ヘーゲルやハイデガーやデリダを扱うのと同じ文体で扱うことです。それが「哲学」というものです。
そもそも私の映画批評のスタイルをみればそれくらいのことわからなくてはならない。私は一切、(よほどのことがないかぎり)映画の内容に触れようとはしていない。それは映画についての私の哲学そのものです。タルコフスキーと(たとえば)相米慎二をなぜ区別(差別)しなくてはならない? バカを言ってはいけません。
追伸(1)
批評とは、ダメという場合にも一流、褒めるときにも一流という作法を持つことです。したがって、対象自体(の一流や二流)から自由でなければならない。
そもそも一流か二流かを歴史や風評から離れて解釈することを批評というのですから。「一流」や「二流」をなぞるくらいなら、わざわざ〈書く〉意味はない。そのことを私は〈古典〉から学びました。
追伸(2)
アンジェイワイダの『灰とダイヤモンド』は、学生時代、池袋の文芸座に通って何度も見ました。マチェクのサングラスをまねしてかけていたくらいです(苦笑)。でも、映画で扱う主題としては重すぎます。あらゆる戦争映画、革命映画がそうであるように。映画というのは生意気な主題を扱うべきメディアではないのです。
追伸(3)
たとえば、ランボーに「永遠」という私の好きな詩があります。
Elle est retrouv?e.
Quoi? ――L'Eternit?.
また見てしまった。
何を? ― 永遠を。
この「また見てしまった」の時間性の緊迫感を映画が伝えることなど不可能でしょう。ゴダールの『狂いピエロ』はこのランボーを引用しながらも足元にも及ばない。単に生意気な映画にすぎない(「ヨーロッパの映画」(哲学的な?映画)にありがちな)。映画は「たかが映画されど映画」くらいでちょうどいいのです。
>ふたたびHさん 2008年04月28日 11:13
どうも芦田さんにはうかつな言葉は言えませんね。「哲学やってるような人が見るような映画」とは、最低ラインの会話言葉です。
たんに、思想系の本を読んでいれば、そういう映画をみるという契機になる、そういう契機を芦田さんは持たなかったのか、あるいは持ったにせよ、なにゆえに、関心は、アメリカにゆくのか、ということに興味があったわけです。
ヨーロッパ映画が哲学的だ、というわけではありません。
あと、音楽で言うと、ユーミンもドリカムも、ロック音楽からすれば音的にも、思想的にもまったくただの従来的な人間のさまにすぎません。
芦田さんがなにゆえにロック音楽にその世代でありながら、関心を持つにいたらなかったのか、それも興味がありますね。
メジャーどころでは、ピンクフロイドをキングクリムゾンを、いかに批評されるか、その音を言葉を、それをききたい。
ドリカムの情緒的な言葉に酔う芦田さんはつまらないですよ。
あとわたしがミクシィでメジャーな人間を話題にするのは、「マイナー」な名前はこういう場所では、瞬時に拒否をおこす人が多いためです。いわば、読むきっかけにならないからです。それはちょうど、わたしにとっては、超マイナーな映画群のこの芦田さんの日記を印象的な文章をのぞいて完全に素通りしたというわたしの読み方から、自分の読み方からそう思うわけですね。
ついでに質問させていただきたい、芦田さんにとってパソコンとはあくまで、計算機的な機能にすぎないようにおもわれます。岩谷宏の言うような、コミュニケーションの可能性、かかわりの可能性としてのパソコンについてはどうお考えか、お時間あればお答えいただきたい。
もうひとつお時間あればお答えいただきたい
1なぜロックの発声はシャウト(叫び)なのか。
2なぜロックのギターの音はわざわざ歪んだ音なのか
芦田さんがロック音楽について知っている範囲内ででもお答え願いたい、と思います。
芦田さんの関心よりも無関心な、語られない領域にわたしは関心があるのです。
見事な大見得を切った、「ランボーとゴダール」のくだりは感動しました。
ただそれは言葉にできません。そのランボーの詩は、あまりにも難解だからです。その詩については、いつかどこかで再度論じていただきたいものです。
それにしても芦田さんの書き物には、芦田さんに「ついていける」コメントがないですね。とりあえずみんなわたしのように質問をすればいいとおもいますね、これを読んでる芦田読者の方々・・・。
>再度の、Hさんへの返信 2008年04月28日 19:28
いやいや、私の「マイミク」の中で、私の書くものの意味を一番わかっていないのは、あなたのような思想崩れの人(たち)です。
私の「ランボーとゴダール」で感激して、吉田美和とユーミンは「従来的な人間のさま」、ふざけんじゃないよ、と私は言いたい。 そもそもランボーの「永遠」はそんなに難しくないですよ。「永遠を見た」と書かずに「永遠をまた見た」と書き出しで語るところが、この詩のすべてです。「また」というところに永遠の存在の強度が一気に噴出しているのです。書き出しで「また見た」なんて言われたら誰でもショック。さすがにランボーです。
追伸(1)
ユーミンのたとえば、「ジャコビニ彗星の日」。この詩の水準は、たとえば、クラプトンの「レイラ」よりははるかに上です(「レイラ」も大好きな作品ですが)。あなたは、ギターの音に拘っているようですが、すべての楽器は人間の〈声〉の変奏です。もっとも豊かな音、それは人間の〈声〉です。そしてもっとも豊かな声、それは美空ひばりの声です。ロックごときに惚れ込むあなたには死んでもそのことがわからないでしょう。
夜のFMからニュースを流しながら
部屋の灯り消して窓辺に椅子を運ぶ
小さなオペラグラスじっとのぞいたけど
月をすべる雲と柿の木ゆれてただけ
72年 10月9日
あなたの電話が少ないことに慣れてく
私はひとりぼんやり待った
遠くよこぎる流星群
それはただどうでもいいことだったのに
空に近い場所へでかけてゆきたかった
いつか手をひかれて川原で見た花火
夢はつかの間だと自分に言いきかせて
シベリアからも見えなかったよと
よく朝弟が新聞ひろげつぶやく
淋しくなればまた来るかしら
光る尾をひく流星群
(ユーミン「ジャコビニ彗星の日」より)
6行目「あなたの電話が少ないことに慣れてく」。ここはすごい。電話が少ないことに「慣れてく」。この言葉は創作の段階ではなかなか出てこない。少なく「なっていく」、ではない。少なくなっているのに「気づく」わけでもない。少なくなって「悲しい」わけでもない。まして電話を「待っている」わけでもない。「弟」のつぶやきに耳を傾けられる程度に私の日常は冷静だ。でも何十年、何百年に一回の出来事(=ジャコビニ彗星の日)が、私の「慣れていく」日常を揺さぶる。
そういった微妙な心理描写が、自宅の庭から一気にシベリアにまで飛ぶ広がりの中で(この空間の転換は圧倒的だ)、もっと(客観的に)絶望感を強調する(結局「72年 10月9日」のジャコビニ彗星は現れなかった)。「どうでもいいことだった」だけに、それはもっと絶望的な出来事だった。「どうでもいいこと」にさえ見捨てられる「私」。「淋しくなればまた来るかしら」。「慣れてく」私と「ぼんやり待」つ私。この詩は、好きな人がもういないことに「慣れ」るということがどんなことなのかをぞっとするような仕方で教えてくれる。( http://www.ashida.info/blog/2002/07/hamaenco_1_7.html )
追伸(2)
「芦田さんにとってパソコンとはあくまで、計算機的な機能にすぎないようにおもわれます」。
そんなことどこで思ったのよ。私のコンピュータ論は「ハイパーテキスト論」(1995年)
http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_22.html
で詳しく論じています。岩谷宏みたいなちんぴらと一緒にしないでよ。