息子の太郎が、4月1日から社会人。これで私(たち)の子育ても終わった。
生まれたのが1985年7月26日(獅子座のB型)。獅子座(私)と射手座(家内)との相性を合わせるには、獅子座(か牡羊座か射手座)しかないということで超計画的に獅子座生まれを狙ったが、7月の上旬に生まれそうになって(もっとも相性の悪い蟹座になったら大変!)、「今、生まれたら大切にされないよ」とお腹をさすりながら言い聞かせたのがついこの間のよう。見事にその脅しが効いて、7月の下旬まで何とかもった。そうやって生まれてきたのが「太郎」。
命名の趣旨は、どこにでもあるようであまりない名前(かつ名前らしい名前)を目指した。その当時、私が主宰していた哲学の研究会で名称検討会を開いた。私は「類(るい)」を最初考えていたが、どうも“すわり”が悪い。それに語源を考えると余り良い漢字ではない。私自身はドイツ語のGATTUNG(マルクスの『経済学・哲学草稿』に出てくるあのGATTUNG)を意識して「類」と付けようとしていたが、その場の“委員”から反対にあってあきらめた。
そもそも名前に凝るのは偏差値の低い親たちらしい。当時、ある社会学者が女子の名前で名前の下に「子」が付かない女子は進学率がよくないとかわけのわからない報告を詳細なデータととも報告していたので、凝るのはやめた。そこで決まったのが「太郎」。
ついでにこの名前なら、全国の銀行の預金通帳は彼のもの。曰く「住友太郎」、「みずほ太郎」というようにお金に困らない人生を、という願いもこもっている(笑)。
家内と私の子育ての暗黙の原則の一つは、高校を卒業するまでは子供を家で一人きりにしないこと。留守番をさせないということだった。私は、息子の太郎を生後2ヶ月から小学校へ入るまで5年以上毎日保育園に迎えに行ったし、家内は20年以上勤務している会社を病に倒れて退職するまで毎日定時に(就業規則に沿って)帰宅している(勤務先のみなさん、ゴメンナサイ)。
「芦田さんに仕事を頼もうと思ったら、5時までがリミット。6時には(必ず)もういない」という不文律が20年続いてきた。会社を出てからも乗り換えのホームを走り続けての20年だった。そうやって、今頃難病になったのかも知れない。
昔、『台風クラブ』という相米慎二の名作映画の中で「かえりました、お帰りなさい」と独り言を言い続ける中学生の登場人物がいたが、なんとも印象的なせりふだった。今でも頭の中にこびり付いている。若い世代の狂気なくらいの孤独をこんなに上手にえぐった映画はない。
ひとりもいない家に帰ることのさびしさはいったいどこから来るのだろう。わが息子も、(われわれが少し遅れて)帰ると玄関や廊下はもちろんいつもすべての部屋の電気を(その部屋に居もしないのに)付けっ放しにしている。「何してるのよ、もったいない」と私が家内に言うと「太郎はいつもこうなのよ」と注意する様子もない。別に特に淋しい家ではないのだが(おそらく普通にはその逆の家族にしかみえない)、なんとなくその感じはわからないわけではない。
息子・太郎のことで言えば、彼にはさびしさの原・痕跡(Urspur)とでも呼ぶべきがあって、生後2ヶ月で預けた私立の保育園から数ヶ月後に公立の保育園に転園した瞬間1週間泣き続けて、急遽再度元の私立の保育園に戻したことがあった。太郎は、その保育園の沖縄出身の保母さん(「我那覇(ガナハ)」という沖縄そのもののような名前の優しい保母さんだった)によく懐いていたのである。それ以来、寝るときにタオルを離さない(我が家ではそれを「牛乳のタオル」と呼んでいる)。
我那覇先生に預かってもらっていた時に牛乳がこぼれたときに拭くタオル(首周りにかけるタオル)を転園した保育園でも使っており、泣き続けながらそのタオルを離さなかったといういわく付きの薄青色のタオル。それが「牛乳のタオル」である。18年近くになるそのタオルが今では(今でも)ボロボロに断片化して、その一部しか残っていないが、それでも自室のベッドの枕付近に置いてある。
時々家内がからかうようにして「捨てようか」と声をかけるが、「いいよ(すてなくてもいいよ)」とさりげなく(低い声で)かわしている。そのさりげなさに妙にリアリティがあるものだから、勝手に捨てるわけにもいかない。たぶん我那覇先生からの別離は、母胎からの別離の第二の別離であったほどのショックだったのだろう。
母親からの卒業式は、むずかしい。高校の卒業の最後の年に母親が倒れた。わずかばかりに残っている「牛乳のタオル」(のきれぎれの断片)は、今、太郎の心の中でどうなっているのだろうか。私は子育てに内容的に関わろうとは思わないが(現に小さいときから息子に話すこと、教えること、怒ることなどほとんどない)、こういった原・痕跡(Urspur)には関心がある。