by 芦田の自己コメント(2008-02-27 21:38:15)
Pさん、最近本当に忙しいので(あなたもでしょうが)、これも閑話休題にして下さい。質問は山ほどありますが、文章に整理できていません。お忙しいあなた(+専門家)に質問するにはそれなりに時間がかかります。しばらくお待ち下さい。そこでちょっと閑話休題。
あなたの「己を切る」というコンテキストが面白いなぁ、と思っています。
狭い意味での科学論は、基本的にはカールポパーの批判的実証主義とトーマスクーンのパラダイム論の間を動いています。
ポパーの科学的真理は簡単に言えばこういうことです。
たとえば、経験的に(=実証科学的に)1,2,1,2,1,2,1,2と見出された列がある。最後に来た「2」の次の数字は?
次の数字は、普通は「1」と予測するでしょう。
でも、「3」という数字が来たら?
そうすると「1、2」というルールはルールではないことが実証的に証明される。
ひょっとしたら、この数列は1,2,1,2,1,2,1,2,3,1,2,1,2,1,2,1,2,3という新しいルールの始まりかも知れない。
つまり、「3」の登場は、新たなルール探しの旅の始まりなのです。「1、2」のルールが、MS=T細胞免疫論やベータフェロンEBMだとしたら、メイヨークリニックの2004年12月「NMO-IgGの検出」や2008年1月のAnnals of Neurologyの論文(液性免疫主体論)などは、大げさに言えば、その「3」に当たるものかも知れない。これがポパーの批判的実証主義です。
もう一方で、もう少し観念的な科学論がクーンのパラダイム論です。彼は科学的真理は、一つのパラダイムの発見、たとえば、MS=T細胞免疫疾患という「パラダイム」が一度成立してしまうと、その後の科学的発見はひたすらその発見を補強するようにしか進まないというものです。〈真理〉はどんどん内閉していくということ。つまり実証的な真理というもの、あるいは真理の連続的で史的な発展があるのではなくて、相対的に自立したパラダイムの輪切りのようにして真理(=その時代を画する公共的な幻想)が存在している。それがクーンのパラダイム論です。
すぐにおわかりのように、この両者は一見対立しているように見えますが、それほど遠くにいるわけでもない。1,2,1,2,1,2,1,2というセットの3番目や4番の「1,2」はある意味で「1,2」パラダイムに縛られている実証性だとも言えるからです。また「3」の発見も、それ自体は、実証的なものではないかもしれない。慶應大学と都老人研の「FcRg」の2003年6月の発見は、それ自体偶然なものだった。この偶然性を「実証的」とは言えないでしょう。ある種「パラダイム」論的な偶然性(=非連続性)を孕んでいます。
「己を切る」というのは、案外、悲壮な決意や強い意志によって(ましてや高潔な正義感や倫理観によって)ではなく、偶然を素直に受け入れるスタンスにあるのかもしれません。それは、科学も哲学も同じです。
以上、お粗末な閑話休題でした。