by ashida(2008-01-07 20:32:31)
>ANさん
そうですね。『家族ゲーム』は、私の学歴社会論=家族の解体と同じ主題でしたよね。『コインロッカーベイビーズ』も同じです。結局のところ、コルビュジエの「ユニテ」は家族の解体を(根源のところで)含んでいたのです(「ユニテ」はすでに「家族」や「共同体」ではなかったということ)。
「人類絶滅」は面白い主題ですが、私は人類絶滅は、人間が故意には(=〈主体的〉には)不可能な出来事だと思います。人間は、それほどに〈否定〉を完遂できるほど強くはない。
モダンを終わらせる、〈終わり〉は「人類絶滅」という形ではない。
家族の解体と人類の解体とは、ほとんど同じ出来事ですが、この差異に言及するにはまだまだ私の勉強では足りない。「『終わりを見せないモダンの終わり』を人類絶滅と描ける小説や映画は自由でいいなあと僕は思います」。 これは小説や映画の限界としてはよく分かる話です。
by AN(2008-01-07 20:37:10)
芦田さん
今一度,超高層建築論を読み返してみました。1点,質問させてください。
前段には,「個に属する評価としての成績」について書かれていると思います。個に帰する評価である成績が前近代(伝統的な家族観=家柄)を解体させたというご指摘だと思います。
中段の超高層建築のお話は,「個が集合する場としての近代都市」について書かれていると思います。脱家柄の人々にとって,近代都市ほど居心地のいいものはない。芦田さんは,近代都市そのものを『超高層建築』と呼ばれたのではないかと思います。
かつてコルビュジエは建築によって近代を表現しようとしたけれども,その先にあった近代(今日)は,インターネットや携帯電話の時代だったと思います。そのことは,芦田さんが別の記事で指摘されていると僕は理解(誤解?)しています。交通網に加えて,インターネットや携帯電話などが時間・空間を再構築してしまったという意味において,近代の主役は『超高層建築』ではなく,「非建築」ではないでしょうか?(今日の建築は「風変わりな芸術」ではあるかもしれないけど,時代の表現にはなり得ていないと思います)。
だとすると,もし芦田さんのご指摘が「個が集合する場としての近代都市」=『超高層建築』という枠組みだとすると,ちょっと違うかな(古いかな)という気がしました(この点は僕が芦田さんの文章を読めていないところかもしれません)。「超高層」であるかどうかとは関係なく,もはや都市全体が「超高層」のように作用しているのではないでしょうか? 僕は,漠然とですが,「個が集合する場としての近代都市」=「20坪に一軒家にフェラーリ」ではないかと思ったりします。
前置きが長くなりましたが,質問させていただきたいのは,『20坪の家のある〈地域〉はそれ自体が〈フェラーリ〉を拒んでいる地域』とおっしゃるほどに「地域の意味」を重要視されているのはなぜですか?ということです。
その答えは,「インターネットや携帯電話などが時間・空間を再構築してしまったという認識は誤り。今日の都市は依然として非近代。20坪の一軒家はフェラーリを拒み続けている」ということかなと想像したりはします。しかし,成績が個のプロパティでありえるとすれば,(20坪ではなく)フェラーリが家のプロパティでもありえるような気がするのです。
という質問を,調子に乗って,ここまで書いてしまったのですが,かなりの愚問かなという気がしてきました(せっかく書いたので投稿しようと思いますが…)。
芦田さんにとってのフェラーリは,学園祭や紅白歌合戦と同じように,守るべき美学なのかもしれません。芦田さんの美学を共有できないのが僕の限界なんでしょうね。
by ashida(2008-01-07 20:39:04)
>ANさん
いや、私が〈超高層〉に固執するのは、それが、〈今・ここ〉を相対化する建築的表現だからです。別の主題で言うなら、それは〈インターネット〉であるかもしれない。〈情報社会〉であるかもしれない。
〈都市〉はまだある一定の場所(=地域)でしかない。コルビュジエの「ユニテ」もまだ一定の場所に過ぎない。そこがライプニッツのモナドとなお違う点です。
しかし〈超高層〉は、ある空間を占める特定の場所ではもはやない。そこが〈都市〉と〈超高層〉との違いです。
〈フェラーリ〉の問題は、こう言い換えましょう。〈フェラーリ〉もまた階級的なものなのだということです。〈住宅〉に比べればはるかにエセ要素を含んでいますが。〈フェラーリ〉も一種の不動産なのですよ。両者はプロパティではあるけれども矛盾しているということ。
結局のところ、すべてを動産化することが〈超高層〉のもつ意味だと思います。あなたの言う〈個〉(私の前述の言葉で言えば〈主体〉ですが)が〈個〉である条件はただ一つ、不動産をプロパティとしないということです。
by AN(2008-01-07 20:41:14)
芦田さん
「〈超高層〉は〈インターネット〉であるかもしれない。〈情報社会〉であるかもしれない」というお話はよくわかります。しかし,やはり,「〈インターネット〉ような建築,〈情報社会〉のような建築」の概念の説明に「超高層」という言葉が合っているのかどうか,依然として疑問です。
『すべてを動産化する』とはどういうことか,もう少し考えてみようと思います。
by ashida(2008-01-07 20:42:52)
>ANさん
あなたの疑問は、「超高層」が比喩でしかないのではないか、という疑問だと思います。
私の答えは〈超高層〉は比喩ではないということです。
場所(今、ここ)と人間との関係は、人間のあり方を根本的に規定しているという意味において、それは比喩ではないということです。むしろ〈超高層〉の比喩が情報社会でしかない。60年代後半に〈団地〉ができたときに〈情報社会〉は“予知”できていなければならなかった。
※哲学的に言えば、ライプニッツ以後のヘーゲルの『精神現象学』は〈超高層〉の回廊だと言えます。まさにそれは〈今・ここ〉の相対化から始まります。かれもまた(偉大な)近代主義者です。
〈家族〉とは、“場所に規定された人間関係”と言い換えられるわけです。〈家族〉以外で場所と本質的に結びつく人間関係はありません。〈住宅〉とは、家族=場所の別名です。そしてその意味で〈家族〉も〈場所〉も人間の有限性の起源であるわけです(私はここで〈有限性Endlichkeit〉を単に悪い意味で言っているのではありません)。
インターネットや携帯電話は、〈住宅〉を解体しました。それは住宅内のすべての部屋から〈外部〉に“通信”できる環境を作ったからです。住宅内のすべての部屋が〈外部〉と対等の関係を持つようになった。その究極は〈母親〉が携帯電話を持つようになった時点(あるいは〈母親〉がミクシィをやるようになった時点)であって、そこで〈家族〉は本当に解体してしまったわけです。しかし、それはまだ住宅内の解体に過ぎません。個々の家族が解体しつつあるのであって、住宅の場所自体はそのことによってまだいかなる〈外部〉とも開けていない。
場所自体(=〈大地〉)は情報化できない。それが情報化できれば、イラク戦争でアメリカが負けることはなかった。
〈超高層〉は、それ自体ですべてであるようにして外部を内部化した空間です。したがって、それがどこにあるのかということに対して無関心な空間(無関心でいられる空間)です。〈超高層〉の野望は、〈大地〉の無化にあるわけです。それは空間・時間の差別が純粋機能においてしかなされていないような場所(無=場所)です。私が「動産化」と言ったのはここで言う「純粋機能」と同じものです。