by M(2008-01-07 13:15:04)
あけましておめでとうございます。
芦田さんの今回の記事、面白いですねー。
私は「そうか、高層住宅とはそういう人間の“感じ方”が根底にあるのかもなぁ」と新年から楽しい10分間を頂きました。
連綿と続く家・家柄というものは非常に強固で、簡単に捨てることもでき、また家に戻れば簡単に再び身にまとう事ができます。
しかし、新たに作り出すことはできないですよね。
私は私自身に力がない分、薄っぺらいとはいえ出自(家庭)や階級に守られている面があることを強く感じています。(生まれ育った地域・社会で生きていますので・・・。)
また、インドやイギリスのように階級がしっかり根付いているからこそ安定した社会であることも感じます。
また記事を読んでいて、かつての私の祖父が言った
「戦争は、歩兵が歩いて旗を立てないと“勝利”とは言わない」という言葉を思い出しました。
東京という場所を意識して暮らしておられる芦田さんの記事を、これからも楽しみにしています。
by AN(2008-01-07 13:19:16)
寒中お見舞い申し上げます(喪中につき)。本年もよろしくお願いします。
超高層建築論,興味深く読ませていただきました。深遠なお話に考えさせられ,コメントが遅れてしまいました。にわかに全体を理解できず,コメントが難しいのですが,感じたことを書かせていただきます。
『都市集中は、空間的な移動の自由と階層間移動の根拠をなしている』という点,その通りだと思いました。
建築の歴史としては,ル・コルビュジエ(1887〜1965年)が,伝統的なヨーロッパとは異なる自由な(近代的な)な住空間を構想していたと思います。コルビュジエは,「ユニテ」(住居単位)と呼ぶ高層集合住宅をいくつか建てています。
マルセイユ(フランス)のユニテには,オフィスやホテルやスポーツジムが内部に組み込まれています(現在はホテルやスポーツジムになっている部分は,元々は別の用途だったかもしれません)。今は使われていないかなと思いますが,フェルミニ(フランス)のユニテには幼稚園が組み込まれていたと思います。屋上を公園として使うというのも彼の建築の特徴です。
コルビュジエは,鉄筋コンクリートという技術を使って近代の「自由さ」を表現しようとした建築家だったと思います。ユニテでは,住戸を都市の生活単位として,車や徒歩も含め,住戸から都市の各部に自由にアクセスできる空間を目指していたと思います。造形的な側面を別にすれば,駐車場や(わずかではあっても)緑をもち,近所にはコンビニのある現在のマンションは,ユニテ的な空間ではあるように思えます。学校にしても,我が家の子供の小学校はわずか5分の距離にありますが,決められた通学路に毎朝監視員が立つ有様で,家と学校の間が外部といえるのかどうか疑わしいような気がします。
芦田さんの超高層建築論はコルビュジエの構想に似ているように感じますが,似ていないのかもしれません。コルビュジエの「ユニテ」とライプニッツの「モナド」は似ているのでしょうか? 似ていないのでしょうか?
話を振ってしまって恐縮ですが,僕は,マンションにしろ超高層建築にしろ,そこにある「単位」が何なのかということが気になっています。
フツーに考えれば,単位は家族ということになるんでしょうけど,僕には,近代の家族とは何かということが気になります。以前にも携帯電話に関する議論の中でお話させていただいたように,僕は,核家族が家族の最小単位ではない(もはや核家族は住宅の単位にならない)と考え始めているからです。
1950年を境に,社会的傾向として,大家族が核家族に移行したといえると思います。核家族を単位とした住宅の形式がいくつか提案されたと思いますが,その一つが団地だったと思います。今では核家族のための住宅が一般化したと思いますが,しかし,実は,核家族という概念はどうも怪しいと僕は感じ始めているのです。
仕事や学校などを通して外部とつながる個が核家族として同居する形式がほんとに「自由」であるかどうか疑問に感じるのです。実際,核家族は,さまざまは分裂をはらんでいるような気がします。そして,核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます。
長くなってしまいました。
最後に,つまらないコメントになってしまいますが,「20坪の一軒家にフェラーリ」も悪くないんじゃないでしょうか? 「後ろ指」は気にしなければいいし,でも気になるのなら近所に駐車場を借りればいいし…。
一戸建ての住宅であっても,どうしようもなく外部(都市)とつながってしまうであろうという意味で,すべては芦田さんの超高層建築の中に含まれてしまうように感じました。
by ashida(2008-01-07 17:53:39)
>Mさん
そうですか。あなたの言われるように、私は「東京」を意識しないで仕事をしたことは一度もありません。むし>ろ「東京とは何か」は私の主題のすべてです。たぶん、〈東京〉は近代以後という主題にぴったりの都市だと思います。
それは京都の片田舎から東京へ出てきて、高田馬場の「芳林堂」書店、日本橋の「丸善」(あるいは神田の北沢書店)に立ち寄ったときに興奮して以来の私の認識です。若い私にとって、書店の冊数は世界の大きさそのものでした。当時の私にとって、田舎か都市かの差異は、大書店があるかどうかだったのです。
東京への興奮はそこから始まりました。AMAZONで何でも見つかる最近の若者には、この私の感覚は伝わらないのでしょうね。
「戦争は、歩兵が歩いて旗を立てないと“勝利”とは言わない」 。いい言葉ですね。その通りです。「歩兵」が戦争のすべてです。
また、私の都市論、戦争論をじっくりと展開したいと思います。
>ANさん
>芦田さんの超高層建築論はコルビュジエの構想に似ているように感じますが,似ていないのかもしれません。コルビュジエの「ユニテ」とライプニッツの「モナド」は似ているのでしょうか? 似ていないのでしょうか?
●コルビュジエの建築論は(いい意味も悪い意味でも)近代主義そのものだと思います。「ユニテ」も限りなく「モナド」に近い。
>1950年を境に,社会的傾向として,大家族が核家族に移行したといえると思います。核家族を単位とした住宅の形式がいくつか提案されたと思いますが,その一つが団地だったと思います。今では核家族のための住宅が一般化したと思いますが,しかし,実は,核家族という概念はどうも怪しいと僕は感じ始めているのです。
>仕事や学校などを通して外部とつながる個が核家族として同居する形式がほんとに「自由」であるかどうか疑問に感じるのです。実際,核家族は,さまざまは分裂をはらんでいるような気がします。そして,核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます。
●「家族」が「自由」でないのは明らかです。都市の究極が家族の解体であることは確かです。核家族でさえ、その対象でしょう。「核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます」。その通りだと思いますよ。それは私の立論そのものです。私の〈超高層〉という概念は住居の人間的な単位である(核家族〉そのものが解体していることを含んでいます。現に〈学歴社会〉は(とりあえず)は親(家族)の痕跡を消すことを意味していたわけですから。
>最後に,つまらないコメントになってしまいますが,「20坪の一軒家にフェラーリ」も悪くないんじゃないでしょうか? 「後ろ指」は気にしなければいいし,でも気になるのなら近所に駐車場を借りればいいし…。
●でも20坪の家のある〈地域〉はそれ自体が〈フェラーリ〉を拒んでいる地域です。20坪の家の〈外〉はそれ自体20坪の地域なのです。マンションの大規模開発は、たとえ、〈そこ〉が僻地であってもそれ自体が地域の意味を形成するような脱地域であるわけです。〈超高層〉ならなおさらのことです。
by M(2008-01-07 17:56:18)
Amazonは便利です。そして多少曖昧な検索もしてくれるようになりました。
「この本を買った人はこんな本も買っています。」
という欄で、多少は本との偶然の出会いを演出する本屋らしくなったでしょうか。
しかし、大きな本屋で「分野」こどに大きく作られたエリアを彷徨し、偶然の大発見(?)をして電車賃が無くなることも忘れて本を買ってしまうワクワク感はAmazonにはありません。
閑話休題
今回の芦田さんの記事、プリントアウトして高校受験の
息子に丸写しさせるよう準備しました。単純作業ですが、なかな日本語力が伸びる方法です。
大学受験の時期になったら、その頃の楽しそうな記事を英作文の練習用テキストにする予定です。論文を書きなれた人の文書は英語化し易いので、その訓練には最適です。(笑
by AN(2008-01-07 20:29:54)
もう1回,ANです。
以前にも同じことを議論させていただいたかもしれませんが,超高層建築論は,映画「家族ゲーム」(森田芳光監督,1983年)の世界のように思えます。あの映画は,個人に帰する評価である成績が家族の解体の象徴として描かれていたと思います。
あの映画のラストシーンにはさまざまな解釈があり得そうなのですが,僕は,「ヘリコプターが催眠ガスをばら撒き人類は絶滅」というのが正しいような気がしています。僕にとっては,村上龍の「コインロッカーベイビーズ」のラストと重なるのです。
「終わりを見せないモダンの終わり」を人類絶滅と描ける小説や映画は自由でいいなあと僕は思います。