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なぜ、人を殺してはいけないのか? ― 一つの〈責任〉論[社会・思想]
(2007-03-28 00:44:27) by 芦田 宏直


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●2007年03月20日 22:08 

今日、ある人から、「人を殺してはいけない理由」って何ですかね、突然聞かれた。子供に突然尋ねられたらしい。

私は即座に「殺してはいけない理由なんてないよ。殺すことが〈できる〉ことが人間〈である〉ことよ」と答えておいた(以前にも答えたことがあるが増補して再録しておく)。

昔『文芸春秋』が「なぜ人を殺してはいけないのか?と子供に聞かれたら」という特集を組んでいた。

山折哲雄(宗教学)、野田正彰(精神分析学)、岸田秀(精神分析学)、矢沢永一(国文学)、三田誠広(小説家)など一冊くらいは自分の書棚にある人たちの名前が並んでいたので、意見を聞いてみたいと思って買ったが(私は基本的に雑誌を買わないが)、案の定、サイテーの内容だった。

この人たちは、結局は凡庸な“ヒューマニスト”にすぎない。

私であれば、自分の子供に、「人間は殺しうるものだけを愛しうる」と教える。

人間の歴史は、殺すこと(否定すること)の対象を拡大することにあったわけです。

〈自然〉が脅威の対象であった時代には、自然を愛することなどはあり得なかった。自然から自由であることが自然を愛することの根拠であったわけです。

もし桜の木が人間を襲ってきたら、春になって桜を愛でるなんてことはなかったでしょう。桜からいつでも自由であることが、桜に近づきたい(桜を見に行きたい)理由なのです。

その存在を否定できることと接近したいこととは同じ理由なのです。「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」(古今和歌集)と在原業平が詠んだとおりです。

そうやって人間はまず〈自然〉を殺しうるすべ(=道具)を心得た。そのようにして、人間の歴史の“進歩”というものがあり得た。

一人の人間を愛することが〈できる〉という根拠も、その人間から自由に離れうる(その究極の形態として殺しうる)ということなしにはあり得ないことです。

それは動物の殺し合いとは全く別物。動物の殺し合いは、弱肉強食ですが、人間だけは、“弱い”人間でも“強い”人間を殺すことができる。子供でもちょっとした“武器”で憎い人間を殺すことができる。

人間が武器や戦術を持ちうるというのは、人間が自然的な諸条件(子供、女性、病者など)を超えて、どう猛な動物や強者から肉体的に自由であるということです。

どんなに愛し合う間柄であっても、いつでも、その相手から逃げることができるという原理が根底にない限り、「離れられないんだよね」なんて絶対に言えません。

場合によっては一突きで殺しうるからこそ、人間は命をかけて添い遂げることができるのです。

つまり人間は自由に殺しうるからこそ、自由に(=深く)愛しうるわけです。動物の〈愛〉と人間の〈愛〉とを類比的に語る連中がいますが、そいつらはとんでもない勘違いをしています。

動物の愛と人間の愛とは全く別物です。動物の愛(あるいは家族)は強さの表現ですが、人間の愛はそういった強弱からは最初から逸脱しています。人間の〈愛〉は〈自由〉が根底に存在している。あえて動物的に言えば、この自由は殺しうる自由です。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」。バカな問いを発してはいけません。殺すこと(殺しうること)は、人間の最大の自由、人間が人間であることの原理です。人間はどんなに“強い”人間であれどんなに“弱い”人間であれ、殺しうることと愛しうることとを同時に手に入れた。ここに人間の愛憎の本質があります。


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