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すでにあること(=過去)だけが確実(な事実)であって、将来に起こることは誰にも予想できないということが本当だとすれば、死は、まだ自分は死んでいないという点で不確実なもののように思える。その意味で、「将来」は、まだないものとして何一つ確実なものを持ってはいない。
しかし、死は自分にとって将来起こるもの、その意味で不確定なものであるにもかかわらず、どんなに(起こることの)可能性の高い出来事より確実にやってくるものであることを誰も否定しはしない。この場合、“やって来る”というのは、まだ来ないものとして「いつかは来る」という意味なのではない。
死がまだないというのは、猶予としての将来を意味しているのではなく、むしろいつ来てもおかしくない“切迫”としての将来なのである。つまり死の将来性は、まだないものとして単に不在=無であるのでなく、間断なく存在する不在としての将来性なのである。
というより、将来や過去があること自体が死のメタファーなのだ。
用意や予測、覚悟や準備、認識や知識を持たなくても、人間はすでに充分に死ぬことのできる年齢になっている。
生きるということが瞬間としての出来事ではなくて、これからも生きる、つまり将来的に生きるということだとすれば、死の切迫性は生きることに先行している。ある時間を生きたことは、死がまだやってこなかったことの結果にすぎないからである。
言いかえれば、人間は生きた結果、死ぬではなくて、すでに死んでいるにもかかわらず、まだ死んではいない(=結果として生きている)。
死は、まだないことがすでにあること、すでにあることのまだないことという固有な時間的緊張の内にあると言える。
人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからと言って、死を避けることができるわけではない。
また自殺をしたからといって、それは人が食事をしたというふうに或ることの行為者になるわけではない。
人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(食事が完了した後も生きていなければならない)が、 死後の時間を生きる訳にはいかないからである。それは〈生きる〉という言葉の乱用に過ぎない。死後も生きるのなら、生死の区別はすでにそこで消失している。
死後の世界を語る人間は死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。
つまり人間は自分の力で死ぬことができない。自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。
おそらく、どんなに個性的(特長ある、私的)なことであっても、それと同じ個性や特長を持つ他人は存在しうるだろう。つまりその個性は代理され得るだろう。
しかし、死ぬことだけは〈私〉の死であり得る。私は単独で=一人で死んでいく。
逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が〈私〉の死であることからきている。
〈私〉が存在することと〈死〉が存在することとは、だから、同じことである。
しかしそのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことだ。私は私の死であるが、しかし私は(自殺が根源的に不可能であるようにして)死ねない。
私は死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。
世界の中で一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。
というより、〈世界〉という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠である。
なるほど、世界は私の世界ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。
私がその中にいる世界は、私がいない(=死んでしまった後での)世界と同じものである。
しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、不可能なものの可能性であることの意味だ。
私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは外部のことである ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部〈である〉ことからきている。
私の死が世界の中で起こる“出来事”でないのは、そのためである。
私の死は、世界の境界で生じる。厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は、境界そのもの、世界そのものなのである。
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