by ashida(2007-01-31 21:40:19)
(あなたは言う)「世界=レースコース。ある人が生まれた時、その人もレースに参戦するということになります。ただ、ゴールはありませんし、参加者は常に変わります。(生死によってのみ)耐久レースをする人もいればトップを走りたがる人もいるでしょう。走りを楽しむだけの人もいれば、軽く流して風景を楽しむ人もいるでしょう」。
●バカなことを言ってはいけません。ゴールのないレースなんて、レースではないのだから、レースという言葉を使いながら、ゴールのないレース、という言い方をするのは、地方の文学青年・文学少女並みにくだらない比喩です。もはや比喩の機能を果たしていません。
(あなたは言う)「人間の病気はまさに機械の故障ですよ、芦田先生。
芦田先生の蓄膿症はマフラーに汚れが溜まったという例えでいかがでしょう。
満点の寿命はまだ解明されていませんね。
ただ、理想的な生活を送ると140歳まで生きられると発表されたらしいですが」。
●とんまなことを言ってはいけません。「寿命」なんて本気で言っているのですか。そんなものこの世の中には存在していません。寿命も人生も、そんなものは存在しない。
いいですか。病気も生きることの一形態じゃないですか。それが機械の「故障」と人間の病気の違うところです。さらに言えば、生きることは死ぬことの一形態(=生きることは死に始めること)ですから、生きることは、もっとも大きな病気と考えてもいいわけです。それを私は何度も言っているのに、あなたは聞く耳を持たない。くだらない通俗的な表象に頼ってしか死や生や病気を考えようとしない。
(あなたは言う)「満点の性能というのは非常に難しいですね。それを限界まで引き出そうとしているのが思想家や研究者やスポーツ選手じゃないでしょうか。まだまだ限界点を知った人などいません。だから性能の限界点を引き上げるために人が努力するのだと思います。極点が解明されていない場合はこれまでのデータから偏差値を出すことしかできないでしょう。それで優劣を付けるのが一般的かと思います」。
●人生や寿命なんて、存在しない、というのが私の日記の内容ですから(あなたは私の本文を全く読めていない)、そんなものに「性能」や「優劣」なんてあるわけがない。人が死んだり、生きたりしていることに何の意味があるのですか。意味がないから、優劣も何もないのですよ。その意味でなら、動物も生きているし、死ぬ。そんな生死はどうということもない。
「思想家」「研究者」「スポーツ選手」に優劣は付けられるでしょうが、人の生き死にに優劣などない、という私の議論をあなたはいつのまにかすり替えている。
(あなたは言う)「『既に死んでいる人間=リタイヤ組』に関しては少し解釈が違います。「トップ争いをしている人」だけが「生きている人間」ではありません。『リタイヤ組=性能を引き上げる努力を辞めた人間』だと思います」。
●ふざけたことをいっている場合ではありません。自分の「性能」って何ですか。そんなこと自明なことなのですか。私なんか、未だに自分の性能がわかりません(というか、「性能」という点では全くのポンコツです)。「性能」には目的と機能が備わっていなければなりません。人間はあれこれの目標や機能に解消されてしまうものなのですか。そんなことあるわけないでしょ。
(あなたは言う)「ヘーゲルもそこまで深く考えているとは思えません。『所詮、畜生は深く物事を考えないだろう』と思って言ったのではないでしょうか。それこそ想像力に欠け、人間の世界しか見ようとしていない愚かな人間だと思います。そういった人間の多くは地球環境など考える事も無いでしょう。己の視野の狭さを言葉に露呈している哲学者の一つの例ではないしょうか」」。
●ヘーゲルは、あなたがそう判断するようなことをどこで言っていますか。教えてください。あなたはヘーゲルの何を読んでそう思ったのですか。ぜひ教えてください。私はヘーゲルが「想像力に欠け」た思想家だと思ったことは一度もありません。ぜひ教えてください。
(あなたは言う)「そういった思いやりの心が欠けている人が哲学者には多く見受けられるように思います」。
●なぜ、哲学者に「思いやり」が必要なのですか。哲学は人生論とも生きることとも何の関係もないですよ。ましてや良く生きることとも関係ないですよ。人には「思いやり」が必要だというのならわかりますが、哲学者に「思いやり」なんて、お門違いですよ。そもそも哲学者でなくても「思いやり」のある人はいくらでもいます。哲学者にも「思いやり」のある人はいくらでもいますが、それは彼が哲学者であるからなのではありません。
(あなたは言う)「キューブラー・ロスの5段階説が認識論から存在論を表すという話、深く同意いたします。」
●「同意」なんていりません(私は「同意」を得るために書いたのではありません)。わかるかわからないか、です。たぶんあなたはわかっていないと思いますよ。そもそも「認識論」ってあなたの理解では何ですか。「存在論」ってあなたの理解では何ですか。
否認が認識論で、受容が存在論だというのをどういう意味であなたは理解していますか。もしこれにあなたが「同意」するのなら、「性能」だとか、「レース」だとか、「病気」は「故障」だなんて言う訳がありません。
by YK(2009-02-02 05:02:25)
はじめまして。
この記事、大変興味深く読ませていただきました。足りない頭で、分かろう分かろうとした結果、とんだ夜更かしになってしまいました(笑)。それだけ面白かったです。読んで考えたことを書かせていただきます。
ぼくは、死が恐いと考えたことがあります。けれど、ぼくがこの記事の内容を誤解していないならば、死が恐いとは言えないと思います。では何が恐いのか。今仮に拳銃や刃物を突きつけられたとしたら、ぼくは恐怖します。
しかしそれは死への恐怖ではありません。痛いだろう苦しいだろうと予想するから恐いのです。肉体的苦痛に恐怖するのです。肉体的苦痛を過去に経験したものとして知っている上に、過去のそれらを遥かに上回るだろうと見込まれる事態に見舞われるのは、ご免です。
ではそこでもしぼくを殺そうとしている人がその道のプロで、何の苦痛もなくぼくを即死させるとしたらどうか。それでもぼくは恐いです。ぼくが死んだら、ぼくの周囲の人たちはたぶん悲しんでくれることでしょう。ぼくは悲しませたくありません。
とくると、死が恐いのではなくて、その人たちの悲しむ姿が恐いということになります。では、誰も悲しんでくれないとしたら(そう思いたくはないですが)。それでもやっぱり恐いです。
死んだら、やりたい事ややらなければならない事が出来なくなります。前途が絶たれるのは嫌です。
もっといって、「もうこれ以上することはない、やるべきことも果たした、せーせーした、さあ殺ってくれ」という心境に自分があったらどうか。これは、そんな状態になったことがないので判断しかねます。
こう考えると、どうやら死そのものを恐れるのは難しいことのようです。しかしそうは言っても、今後決して死に恐怖しないという自信を急には持てない、というのが正直なところです。芦田先生の叱責の対象になってしまうかもしれません(笑)。
長くなってすいません。理解の行き届いていないところがあれば指摘して下さい。