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追悼 川原栄峰先生 ― 早稲田の最後の哲学の死(三枚のメモリアル写真付き)[私の恩師]
(2007-01-25 21:48:05) by 芦田 宏直


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早稲田のハイデガー研究者:川原栄峰先生(早稲田大学名誉教授)が23日亡くなった(http://www.asahi.com/obituaries/update/0123/005.html)。85才だと言う。私が高校3年の時になくなった父と川原先生とはほぼ同い年だった。

早稲田の学部のニーチェ講義以来、大学院では『存在と時間』の講読で長い時間お世話になった。

私は当時、デリダやドゥルーズの、新しいハイデガー読解やニーチェ読解にどっぷり浸っていたから、川原先生のハイデガー(ニーチェ)解釈にはまったく不満で、ゼミに参加しながら「違うんじゃないの、違うんじゃないの」を1分おきにつぶやき続けていたような気がする。

だから毎回川原ゼミの受講は逆に興奮し続けていた。毎週毎週あっという間の90分だった。

私のハイデガー論の形成はデリダに刺激を受けつつ、川原ハイデガー論を川原先生の前でぶっ飛ばしたいという“野心”に燃えてできあがっていったように思う。

デリダがいなければ私のハイデガー論はありえないが、同じように川原ハイデガー講義がなければ、私のハイデガー論などできあがりはしなかっただろう。

当時の川原研究室は、早稲田の大学院の研究室の中でも孤高の研究室で、川原先生は哲学科の教員すべてから(人脈的に)はじき出されていた。私の知っている限りでは、早稲田の文学部哲学科で、川原研究室出身の教授はいないはずだ。出身大学の教授になろうと思えば、人事権を握った研究室に所属しないと“教授”にはなれない。

これはその研究者の実力とは何の関係もない。けちを付けようと思ったらどんなけちでも付けられるのが、人事というものだからである。

けれども私はそんな川原先生が好きだった。そんなことどうでもいいという程度には、川原先生は充分にあっけらかんとしたニヒリストだった。

私が許せなかったのは、川原先生の『存在と時間』Wohnen(ボーネン)=住む=論だ。このボーネン論はどう考えても“処世”論にしかならない。しかも、川原先生はこの初期ハイデガーのWohnen(ボーネン)=住む=論を後期の場所論(Topologie)に連続的に結びつけるために、ますます処世論が深化して袋小路に入っていく。どこまでいっても高級な人生論でしかない。

でもそんな内容と関係なく、川原先生の文体にはいつも脈々としたリズムがあって読んでいて面白い(ハイデガーでもニーチェでもない文体)。博士論文の『ハイデッガーの思惟』(理想社)でさえそうだった。

同じ早稲田の先生でも樫山欽四郎先生の文体はひょっとしたらヘーゲルが日本人ならば、こんな文体ではなかったか、と思わせる研究対象との一体感があったが、川原先生はハイデガーの文体とは似ても似つかぬ川原風。どこまでも川原風だった。ヘーゲルがわからなければ、樫山先生の論文は読めないが、川原先生のハイデガー論は、ハイデガーがわからなくてもわかる、そんないい意味での毒がある文体だった。

今回、川原先生の訃報に接して、あのWohnen(ボーネン)=住む=論+場所論(Topologie)を唱えた先生が、実際に自分の死を、どう受け止められたか、無性に聞きたくなってしまった。そう思うと心が熱くなった。

3年前に死んだデリダ(1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、その直前にこう語っていた。

「生きることを学ぶとは、死ぬことを学ぶことを意味するはずでしょう。絶対的な死滅可能性を受け入れるべく、それを考慮に入れることを。それはプラトン以来の、古くからの哲学的使命です。哲学すること、それは死ぬことを学ぶことであると。わたしはこの真理を信じていますが、それに従ってはいません。従うことがいよいよ少なくなっています」(『生きることを学ぶ、終に』)。

これはデリダの無能力というよりは、西洋哲学の“正直”と考えた方がいい。こういった“正直”の上に、西洋哲学の死の形而上学が深化してきたと言って良い。仏教徒であった川原先生なら、死の直前にどんなニヒリズムを享受したのだろうか。あのWohnen(ボーネン)=住む=論+場所論(Topologie)からは死の受容という観点は絶対に出てこないが、川原ゼミを受講してもう20年近く年を経た私は、死の直前まで川原先生にそのことを聞き続けていたかった。

明日、中野の宝仙寺でお葬式が行われるが、早稲田の哲学科の不可思議な人間関係が交差する葬式になど、私が出られるはずがない。先生だけに“会う”方法はないものか…

川原先生、私は、あなたの講義=トーク=文体が好きでした。最後までハイデガー解釈には納得がいかなかったのですが、でもそんなことどうでもいい、という程度に、あなたは早稲田の教授陣の中で群を抜いた個性をお持ちでした。

ヘーゲルの樫山欽四郎先生、サルトルの松浪信三郎先生以後、あなたを最後に早稲田の哲学科はなんともみっともない無能力に充ち満ちています(そのことをあなた自身が一番おわかりになっていたでしょう)。あなたの死は、早稲田の哲学の死のエポックです。あなたは最後の早稲田哲学の精神だった。さようなら、川原先生…(合掌)。


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