by 伊藤(2007-01-26 09:47:51)
他学部のわたくしは一度だけ川原先生の授業にでたことがありました。
印象に残ってるのは、学生に「きみはここどう思う?」と質問をされて、学生が答えると、「そーおおかあ、そーおお、考えるかあ、おーほっおっほ」という超俗的な笑い声。
当時京大の辻村教授の著書などをみても、どうもハイデッガー研究者というのは浮世離れしてるか、それを気取ってるのか・・・と距離を感じました。
その川原先生のハイデッガー論が高級な処世術、人生論であるとしたらむしろ親しみを感じるといってよいかもしれません。
川原先生の著書を読んでみたくなりました。
by goshu(2007-01-27 08:34:09)
初めて投稿します。
昨日、川原先生の葬儀に行ってきました。
私は先生の写真を持っていないので、掲載された写真を見てありがたく思いました。
私は哲学を専門的にやったわけではないので、先生の表情、しゃべり方、その雰囲気全体に学ぶものがあったとしか言えませんが、それは大変大きな事でした。
多分、釈迦、キリストなどの周りにいた凡人、俗人もその程度のことで、まず惹かれていったのだろうと思います。不思議なことですね。
これからも芦田さまのブログ楽しみにしています。
by ashida(2007-01-27 11:58:38)
>伊藤様
たしかに、川原先生の笑い声は特色がありましたね。人をくったような笑い方は、本当に迫力がありました。
でも他の教授に対しても同じ態度で笑っていましたから、“敵”も多かったんだと思います。私は誰に対しても同じ笑い方をするそんな川原先生が大好きでした。
>goshu 様
私も行きたかったですね。代わりにあなたがいってくれたのだ、ということにしておきます。これも縁ですから。
あなたも言われるように、川原先生は、むしろ教育者だったのだと思います。早稲田の教授陣と比べれば、圧倒的に研究者(文献研究)としての仕事をされていると思いますが、でも影響力はあきらかに教育者のそれでした。
あなたのようにして、川原先生の受講者は、哲学(者)って面白いね、と思った人がたくさんいると思います。学部の授業でも欠席者はほとんどいなかったし、登録外学生もたくさん参加していましたからね。
早稲田の哲学科の最後の“名物教授”だったと思います。
私が言うのも変ですが、お葬式参加してくださって、本当にありがとう。
by 18歳以上(2007-01-27 14:18:48)
このブログの一読者である私も、(たぶん)一度だけ大教室で川原先生の講義を受講したことがあります。
そのときの事情あって、午前から午後に到る長時間の授業で、昼食(弁当)を取りながらの聴講可という言葉が最初に先生からありました。そこで私は手を挙げ、「タバコもいいですか?」と尋ねました(当時は強気だったんですね)。
一瞬虚を衝かれた表情を浮かべた先生、直ちにニコニコされて、「ああ。食後の一服ね。構いませんよ」と答えられました。見所のある学生と思われたか(?)、その授業中ずっと私の顔を見ながら講義をされたような気がして・・・ 懐かしい思い出です。
確かに昔の先生たちには、文体=語りがありましたね。
先週肉親を亡くしまして、やって来た坊さんが通夜の折、「個人はあの世で困難に出会っているから、そのためにこそ戒名を持つ(買う!)ことが必要だ」というような間抜け極まる「法話」をしたものだから、その後の会食の席で一時間ほど仏教論議をしていじめ抜いてやりました。
坊さんはすごすごと帰っていきましたが、49日でもまたいじめてやろうと、てぐすね引いて待っています。
長いメールになって恐縮です。
芦田校長。葬式仏教なんぞ、もう批判する価値すらないのですかね。校長の仏教に関する説を読み聞きした記憶がないのですが、是非お聞かせくださいませんか。
by ashida(2007-01-28 17:53:49)
川原先生は、タバコも弁当も、絶対許していませんよ。授業内で自由に行動させることによって、あなたちの本性を根源的に裁いているんですよ。川原先生のあの哄笑は、裁きの哄笑です。誰よりもそういったことを許す先生ではありません。たぶん、タバコを吸ったあなたはそこですべてアウトです。
仏教についてですか。一部、27日の記事( http://www.ashida.info/blog/2007/01/post_186.html#more )に触れておきました。コメント欄のほんのわずかなところですが、ご参照下さい。