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この間、若手教員と話していて、面白い議論になった。 保護者と学生とは授業料を頂いている〈顧客〉なのだから大切にしなくてはならない、「CS=CUSTOMER SATISFACTION(顧客満足)」を意識しない学校運営は意味がないという意見だ。
私は若手のその意見を聞いていて、ずーっと違和感があった。
一番大きな違和感は、まさにCS=〈顧客満足〉という言葉そのものだった。
私は、言葉の意味になかなか合点がいかないときには、その反対語を考えることにしている。
「顧客満足」の反対語は何か?
「顧客満足」の反対語は「教育」でしょう、と私はふと思った。
教育される側は、本当に「顧客」なのか?
もともと「顧客」や「CS」というマーケティング概念は、〈消費者〉という概念が成立して以来の概念だ。
というよりも〈マーケティング〉という領域そのものが《消費者の時代》の到来と分かちがたく結びついている。
では《消費者の時代》とは何か。それは個人消費が国家の総消費の50%、60%超える時代のことを言う。
一回で億単位のお金が動く大企業の設備投資よりもデパート、スーパー、コンビニ、行楽地などでの個人消費の方が消費額として上回る時代が《消費者の時代》だ。
70年代以降、高度先進国はのきなみそういった《消費者の時代》に突入していった。
別の言い方をすれば、生産が消費の前提ではなく、消費が生産の前提、消費が新たな消費を生み出す時代ということだ。古典経済学では〈不足=欠如〉が生産の前提だが、つまりその意味では生産が消費の前提だが、そんな〈不足=欠如〉など高度な消費大国では存在していない。
何重にも記号化され、シンボル化された消費(消費の必要のない消費)が、人々の消費行動を規定している。
こういった人々を〈消費者〉、〈顧客〉という。
〈顧客満足〉とは〈不足=欠乏〉や〈必要〉(機能という意味での必要)を超えた消費者、自立した消費者としての〈顧客〉の“満足”を意味している。つまり生産に従属しない主体的な消費者=顧客の“満足”を意味している。
この意味で、〈学生〉というのは、どう〈顧客〉なのだろうか。
私は〈学校教育〉の対象は、すべて〈顧客〉ではない、と思う。
〈学校教育〉の反対概念は、〈生涯教育〉、〈社会人教育〉だ。
これらの教育(〈生涯教育〉、〈社会人教育〉)は、最終的に目的の定位者は受講者の方にある。各講座は、すでに存在している、受講者の目的に従属している。色々な講座を“必要”に応じてチョイスして、それらを何に役立てるかは、受講者側の自立した動機が決めている。
したがって、〈生涯教育〉、〈社会人教育〉には受講の〈主体〉が成立している。それは消費的な教育、〈顧客満足〉が問われる教育なのである。そもそも〈生涯教育〉、〈社会人教育〉が成立する社会はそれ自体が高度社会、高度な消費社会でしかない。
〈学校教育〉は、そういった意味での〈主体〉をもたない。そういった主体を形成するための教育を行うのが〈学校教育〉であって、教育目的の形成は学校側(教育する側)に委ねられている。
あえて「満足」という言葉を使うとすれば、何に満足すればよいのか、何に満足すべきではないのか、そこまでをも含めて教育するのが学校教育である。
学校教育の基本モデルは(誤解を恐れずに言えば)〈家庭〉だと思えばいい。そもそも親は子供を〈子供満足〉のために育てているのではない。〈親〉は文字通り子供の“生産者”だからだ。
〈学校教育〉は、その意味でこそ、学生の〈不足=欠如〉(=主体以前の欠如)に定位した生産型の教育を行う場所であって、〈消費者〉としての“受講者”を想定しているわけではない。
〈学校〉で形成される教員と学生との関係は、教員への〈尊敬〉と〈敬意〉との関係であり、〈利害〉関係ではない。家庭の親子関係が〈愛情〉に基づくものとすれば、〈尊敬〉と〈敬意〉は、〈愛情〉の社会的な関係と考えればよい。
社会がどんなに高度化しようと、〈学校〉は非消費的な場所である。高度情報社会のように社会が緊密に組織されればされるほど、非消費的な学校という場所はまずます必要とされている、と私は考える。
たとえば、なぜ、専門学校は「学校教育法」に於ける「一条校」(=〈学校〉)ではないのか。
大概の専門学校が資格の学校だからである。
〈資格〉教育は人材像が教育する主体(教育する側)にあるのではなくて、その資格の提供側に存在している。したがってその教育を受ける学生は、資格の有無の利害を消費する受益者の立場に立っている。
学習主体を前提する生涯教育組織がほとんどの場合、資格教育であるのはそのためである。
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