モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

総集編:子供に携帯電話を持たせてはいけない ― 家族と親の役割(2006-11-09 21:11:47)へのコメント

< ページ移動: 1 2 3 4 5 >

by ashida(2006-11-11 01:31:37)

「弟子」 様

全体の印象を先に言っておきます。大学院で学んでいる割には、話になりません。あなたの言っていることは、単なる通俗にすぎない。もっと勉強しないと(と指導教授の代わりに言っておきます)。

「連絡が密になっていく社会は悪でしょうか。
いつの時代も(特に、戦とつくもの全てにおいて)、連絡をいかに早く、密にとるかが勝敗を決することなど明白であったはずで、携帯電話の普及や情報社会の蔓延なども、そういった歴史の過程に過ぎないのではないでしょうか」。

これは単なる進歩主義です。「連絡が密になっていく」と、連絡の質はどんどん軽くなっていきます。したがって、情報社会とそうでない社会との“情報”は総体として何も変化していません。

それは冷蔵庫によって“便利”になった分、新鮮な食べ物が食べられなくなったのとほとんど同じことです。飛行機で遠くへ飛べるようになった分、コカコーラはどこにでも存在し、遠くへ行ってもコカコーラを飲んでいる、というのと同じことです。

私はだからといって、科学主義(=進歩主義)を退けているのではありません。科学は何も“変化”などさせていないということを言っているだけです。

したがって、〈科学〉対〈モラル〉の問題でも何でもないのです。それは通俗そのものです。

そこに思いを致さないような“考察”は、逆の意味のアナクロニズムです。私は科学技術を十二分に享受しているし、他人よりも楽しんでいると思いますが、だからといって、昔よりも“幸せ”だとは思っていません。


by 703号の弟子(2006-11-11 01:32:53)

芦田先生

返信ありがとう御座います!

>「連絡が密になっていく」と、連絡の質はどんどん軽くなっていきます。したがって、情報社会とそうでない社会との“情報”は総体として何も変化していません。
それは冷蔵庫によって“便利”になった分、新鮮な食べ物が食べられなくなったのとほとんど同じことです。飛行機で遠くへ飛べるようになった分、コカコーラはどこにでも存在し、遠くへ行ってもコカコーラを飲んでいる、というのと同じことです。

僕は最近、自転車の自動点灯ライトに悩まされています。というのは、暗くなると自動で点く上、摩擦式でなく、漕ぐ負担は増えないので便利なのですが、壊れやすく(接触が悪いだの云々の様々な難点があり)、明るい時に点いたり、点いて欲しい時に点かなかったりして、逆に不便だなあということです。

一方で、摩擦式の方は、漕ぐ負担は増えますが、接触不具合なども少なく、寧ろ漕ぐ負担すら運動と思えばこんな便利なものはないと改めて思い知らされました。冷蔵庫については、これと似たような状況なのかなあと思います。

情報も科学も、何も“変化”などさせていないということは、理解できます。

しかし、科学も情報も何も変化させていないならば、それこそ、携帯電話には責任はないのではないでしょうか。携帯電話の普及した社会にも責任はなく、その責任は、使い手のみに存在すると思います。 使い手のモラルの問題です。

モラルのない人間を育てているのは、社会であり、科学であり、情報です。社会も科学も情報も、それぞれ、たぶん死ぬまでその全貌を知ることは出来ない領域で、その中のどの部分をいつ知るかがそのモラルに関わっていると思います。

教育とはなんでしょう。私は、ビジョンを持たせることであると思います。ビジョンを持つには思考が必要です。思考をするにはきっかけが必要です。

こんなにもボコスコにされている携帯電話も、その「きっかけ」としては大いに役立っている代物と言えるのではないでしょうか。

「社会と隔絶した教育」は、社会を傍観出来た上ではじめて成立することではないでしょうか。というか、教育自体が亜すでに社会である気もします。

携帯電話が最先端でなくなった今、携帯電話よりも取り扱いに気をつけさせるべきものは他にあるとも思います。
例えば、パソコン。外でも遊ばずに画面ばっかり見てる子供…それこそ「(生の)社会と隔絶した教育」の機会としては絶好の代物かもしれませんが。。。


by 703号の弟子(2006-11-11 01:33:57)

703号の弟子様

携帯電話に“責任”など誰が求めたのですか。私はNTTの携帯電話を18年前から使っています。

あなたは何度も「使い手」ということばを用いていますが、使い手というのは無垢な主体(あなたが使う「歴史」から切り離された無垢な主体)なのですか。

また同時にあなたが使う「モラル」も、その無垢な主体を想定しているように思います。そんな主体どこに“存在”しているのですか。

新幹線が一度存在してしまえば、その使い方以前に、社会全体は、新幹線のスピードで再構成されるし、原子爆弾がひとたび存在すれば、そのように世界は再構成される。同じように携帯電話も…。だから、それは使い手の問題ではありません。ましてやモラルの問題ではない。

マクルーハンでさえ言っているようにメディアはそれ自体メッセージです。

私が言いたいのは、携帯電話というメディアが世界をどのように再構成しようとしているのか、その点です。

※追伸 703号の弟子さん あなたは引用括弧(「」)の使い方が間違っています。書き手(私)が直接使ったことば、文章、フレーズ以外をあたかも書き手が使っているかのように括弧(「」)で括ってはいけません。それは文書偽造です。

あなたは、私が周到に使い分けていることばを括弧を使ってあたかも私が使ったかのように論じている。それは避けるべきです。大学院の修士課程に在籍しているのならなおさら注意すべきです。

括弧(「」『』〈〉《》“”など)の使い方は、研究者にとっては生死を握るものです。


by 703号(2006-11-11 12:08:02)

「社会=全体,教室=小空間,社会と教室は異質」という観点で議論を進めさせていただいてよろしいでしょうか?

(芦田さんのおっしゃる「隙間」を「小空間」と解釈してしまっていいのかどうかわかりませんが…)。

また,携帯電話は,「社会」へのアクセス装置ということかと思いますが,多少,話を限定して(というより拡大してしまうのかもしれませんが),インターネットなどへのアクセス装置一般を携帯電話のアナロジーとして,議論させてください(それが不適切ならば,ご指摘ください。

芦田さんは携帯電話を非常にきわだったものとお考えかもしれないので,このアナロジーが成り立つのかどうかわかりませんが,その点も,教えていただけるとありがたいです)。

最近は,無線LANや情報コンセントが備わる教室が増えていると思います。情報教室(デスクトップパソコンのある教室)だけでなく,一般教室でも,授業にノートパソコンを使えるようになってきているわけです。で,パソコンが使える教室での授業では,おもしろいことが起こっているように思います。

本来,パソコンは,資料や演習を提示したり回収するためにあるのだと思いますが,すべての学生が授業に集中してくれるわけではありませんから,パソコンでほかごとをしている光景をよく目にします。

最近は,mixi をしている学生をよく見かけます(一昔前は,「2ちゃんねる」だったかなと思います。もっと前は「ソリティア」(ゲーム)かな)。こういった状態を,「小空間であるべき教室が,インターネットによって解体された状態」と考えてみていいでしょうか? 

もう一つ,めちゃくちゃな例になってしまいますが,現在公開中の映画「デスノート」では,主人公の大学生は,個室において情報を収集し,殺人を遠隔操作します。

「デスノート」は極端な例ですが,現在の家庭においては,「個室で子供が携帯電話」ということはよく起こっているだろうと思います(僕の子供はまだそういった年齢ではありませんが…)。本来は,個室は,一人で本を読んだり考えたり勉強したりする場所として用意された「小空間=隙間?」であるはずなのに,「個室」が「社会」にアクセスできる機能をもつと,「小空間」の質が変化してしまう。

こういった状態を,「小空間であるべき個室が,携帯電話によって解体された状態」と考えてみていいでしょうか?

芦田さんの「家庭は、私には、どう考えても、反社会的」というお話しは,「小空間である家庭は時として反社会的ですらある」という意味(解釈)として,大変,印象的でした。

「教室・個室・家庭」がどうあるべきかは,今後よく考えたいと思います。芦田さんの携帯電話論は,「小空間であるべき教室・個室・家庭を解体する装置は抑制するべきだ」とアドバイスをしつつ,「教室・個室・家庭」の空間性を問われたものなのかなと僕は感じました。

反論としては,携帯電話は「アンチ小空間」(アンチ隙間?)ではないんじゃないかという話がありえるように思いますが,論点がズレそうですね。

P.S.
僕は,会議中に,ノートパソコンでメモをとるふりをして,よくほかごとをしています(たぶん誰も僕が会議のメモをとっているとは思っていないと思いますが…)。


by ashida(2006-11-12 01:28:20)

俄然、話が面白くなってきましたね。

ここで矛盾したことを言いましょうか。ちょっと話が複雑になるかもしれません。

携帯電話は「アンチ小空間」(アンチ隙間?)ではないと私は一方で思っています。というのも、携帯電話は、結局のところ自分自身としか話していない。そう思うからです。

特に着信記録が残るようになってからの携帯“会話”は結局のところ自分の知っている人としか話さないようになってきた。

つまり携帯電話によって〈社会〉が侵入してきたのではない。〈社会〉が自己(自己という隙間)を侵害したのではない。むしろ、友達、知人との会話を強化しているだけで、どこにも他者はいない。携帯が拡大しているのは、むしろあなたの言う“小空間”自体であって、単に肥大化した(=インフレを起こした)自己が再認されているにすぎない、と言うことも出来ます。

私は〈情報化社会〉というのは結局のところ、知見を拡大させているのではなくて、単に自己をインフレさせているだけだとも思います。たとえば、BSやCS、あるいはYou TubeやGYAOのような多チャンネル時代の〈多様性〉は、自己が拡大する様を表現しているのではなくて、見たいものだけを見るということを意味しているわけですから、自己は決して〈多〉様化しているのではない。見れば見るほど、自己は矮小化している。多チャンネルの〈多〉は、見たい要求にどこまで細かく答えられるか、ということですから、それは他者を排除するための“進化”なのです。

つまりたくさんのチャンネルは、たくさん見るために存在しているのではなくて、見たいものだけを見るために存在している。多チャンネルはむしろ見ないためのチャンネルでもあるわけです。

携帯電話の進化も、まさにその意味で話したい人と話したいときにだけ話しているわけですから、結局のところ、それは拡大されたモノローグでしかない。携帯も最後には「なんか用事ない?」なんて言い合っている。用事もないのに電話をかけている。ミクシィ(MIXI)の会話も同調者だけを集めている。いやなことを言い始める人が出てくると即座に「申し訳ございませんがこのユーザーのページにはアクセスできません」とアクセス禁止にされてしまう。

一方で迷惑メールが洪水のように毎日押し寄せる。これは、インフレした自己(形式的な自己)の裏返し、つまり形式的な他者の出現を意味しています。形式的な自己が肥大化した分、形式的な他者(=迷惑メール)もまた肥大しているのです。

だから〈情報化社会〉は、〈情報〉がむしろ不在な社会です。〈電話〉がリビングや玄関にあった時代(〈電話〉がリビングや玄関にしか存在していなかった時代)には、〈電話〉にはまず〈他者〉が出た。彼女に電話しようと思ってもお父さんが電話口に出て電話を切ったこともある。そうやって、本当に必要なときにしか電話はしなかった。お父さんの怖さを超えてでも伝えたいこと、これを〈情報〉と言います。逆にお父さんやお母さんは、そのことによって、娘の交友関係を〈知る〉ことも出来たわけです。これも〈情報〉です。

そして、このような情報を〈社会〉性と言い換えることも出来るわけです。昔の電話はその意味で社会の窓だった。

こういった〈社会〉性を現代の情報メディアはまったく有していません。むしろ〈社会〉性の抹消のために技術は進化している、と言ってもいいくらいです。

私が、子供から携帯電話を取り上げるべきだと言ったのは、その意味では、子供に社会性を再度獲得させること、真の〈情報〉を獲得させるためです。携帯電話を断ち切り子供を孤独にさせるということは、〈社会〉や〈情報〉に背を向けることではなく、本来の《他者》に出会うための必須の道程なのです。


< ページ移動: 1 2 3 4 5 >
コメント投稿
記事へ戻る