モバイル『芦田の毎日』

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総集編:子供に携帯電話を持たせてはいけない ― 家族と親の役割(2006-11-09 21:11:47)へのコメント

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by 703号(2006-11-11 01:23:50)

うーん…。この文章は,以前に bbs で読ませていただいた記憶があるのですが,再読してみると,以前の記憶を超えてショックでした。どう反論していいやらよくわかりませんが,ちょっとだけ…

「やっと考えはじめる子供が生きる家庭・学校は,社会とは異質な空間であるべきで,そこにある一人で考えるための空間に携帯をもちこむべきではない」という理解でいいのでしょうか? 

 ここでいう「社会」が何なのかどうもよくわからないのですが,携帯によって家庭の性質が変化するかもしれないというのはわかるように思えます。変化した後の空間は「雑踏」のようなもんでしょうか? そうだとした場合,「雑踏」の中に,自分の居場所(一人で考えるための空間)が見つかるということはないのでしょうか?

なんか言葉の遊びのような質問になってしまいましたが,携帯のつくる空間って,やっぱしどうしてもネガティブなものなんでしょうか? ニンテンドーDSなんかも,やっぱしどうしようもなくネガティブなものだと考えるべきなんでしょうか?


by 703号(2006-11-11 01:25:01)

芦田さんがおっしゃっているのは,「やっと考えはじめる子供が生きる家庭・学校は,社会とは異質な空間であるべきで,そこにある一人で考えるための空間に携帯をもちこむべきではない」ということだと理解すればいいのでしょうか? 

芦田さんがおっしゃっる「社会」とは,たぶん家庭や学校のある生活が成熟した「近代」といった意味なのかなとも思いました。

成熟した「近代」の家庭や学校には携帯なんかなかったというということは確かにあるわけですが,芦田さんはそういうこともおっしゃっているのでしょうか?(そうおっしゃっているようにも思えるし,ちょっと違うようにも思えます)。

もしそうおっしゃってるとした場合,「今日」の家庭や学校は,ちゃんと成熟してるんでしょうか?(時代に合わなくなっている面はないんでしょうか?)

携帯によって「家庭」の質が変化するかもしれないということはわかるのように思います。変化した後の空間は情報過多のせわしない「雑踏」のようなものかなと思いますが,そうだとした場合,「雑踏」の中に,自分の居場所(一人で考えるための空間)が見つかるということはないのでしょうか?

携帯のつくる空間って,やっぱしどうしようもなくネガティブなものなんでしょうか?


by ashida(2006-11-11 01:26:12)

私の言う「社会」というのは、生理的な有機性と言い換えても良いと思います。歯車のように組み合わさった機能的な全体、というイメージです。

そう考えると、家庭は、私には、どう考えても、反社会的なもののように見えます。昔「家族社会学」というゼミで、「家族は社会の基本単位」というバカな“定義”を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか。 本当に〈家族〉が’連続的に拡大したものが〈社会〉でしょうか。

よく、息子が社会的な犯罪(犯罪というのはいつでも社会的なものですが)を犯して、世間に対して謝っている親がいますが、その謝罪の裏には「でもあの子は私にはいい子だった」という許容がいつでもついて回っています。この許容が家族です。それは社会的、というよりは、社会的なものとの隙間なのです。

子供が育つのは、この〈隙間〉なのではないでしょうか。携帯電話は、この〈隙間〉を解消させようとしている、と私には思えます。もちろん、これは過渡的な現象なのでしょうが。


by 703号(2006-11-11 01:27:00)

「社会=全体,家庭=小空間,社会と家庭は異質」というご指摘は大変興味深いです。

「学校」もまた,「社会」とは異質な小空間として,独自のものであるべきだというのがジャイアンさんのスタンスなんだろうなと思いました。また後で,反論させてください。


by 703号の弟子(2006-11-11 01:29:41)

はじめまして。703号さんの弟子です。

ちょっと生意気な発言をさせてください☆
本当は全ての項目に若造なりの賛否を示したいのですが、一先ずは以下の数点について述べさせてください。


まず、そもそも、ひとりになる時間=考える時間は本当でしょうか。

確かに、その過程で「思考」を得ることもあるとは思います。

しかし、私は、仏陀の悟りが目を閉じて見知らぬ者へかけた言葉の中にあったという故事にもあるように、真にものを考えるのは、誰かを相手に語るときであると思っています。

「人との語り」がまずあり、その上での「ひとりで考える」を経て思考力は鍛えられるのではないでしょうか。

それを踏まえれば、「人と語る機会をよりよく得られる(直接電話で語ることだけでなく、会って語る約束をするという間接的な語りの機会ともなる)」という利点が、携帯電話にはあるかもしれません。

実際に、少なくとも私はそのような機会として携帯電話を用いることが良くあります。(直接・間接ともに)

連絡が密になっていく社会は悪でしょうか。

いつの時代も(特に、戦とつくもの全てにおいて)、連絡をいかに早く、密にとるかが勝敗を決することなど明白であったはずで、携帯電話の普及や情報社会の蔓延なども、そういった歴史の過程に過ぎないのではないでしょうか。

また、情報にしろ、携帯電話にしろ、刀にしろ、権力にしろ、その使い手にモラルがなければダメな方向に行くのは当たり前な話あると思います。

恋愛についても同じで、携帯電話を持っている=秒単位に連絡を取り合う恋愛をする、では決してないでしょう。愚かしい行為に及ぶかも知れない。例えばストーカーなど)

携帯電話を持たせないこと(アグレッシブ)よりも、携帯電話を愚かに使う人間にしないこと(アサーティブ、例えば、愚かな使い方による失敗例を示す。それを示してもすぐには愚かなことをしなくはならないかもしれないが、そういった提示を知ることが重要。いつか気づけば良し。気づかくても、他の何かには気づく。)のほうが、遥かにその後の思考力を養うことになると思います。

芦田先生の論理は、はじめから携帯電話の使い手(子供)=バカ(思考力なし)という前提で展開されている気がします。

失礼しました。


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